ウェルギリウス『アエネーイス』における「母」の概念
Mairéad McAuley, Reproducing Rome: Motherhood in Virgil, Ovid, Seneca, and Statius (Oxford UP, 2016)は、ラテン文学における「母」の概念(motherhood)にフォーカスを当てた書物だが、今日は、このなかの『アエネーイス』を論じる部分(pp. 66-94)を読んだ。近年、フロイトの精神分析理論を用いて『アエネーイス』を読みなおそうとする試みが一部でなされているが、McAuleyの議論もそのひとつに数えられるだろう。僕はフロイトに強い関心をもっているので、McAuleyの論考から得るものは多かったが、以下では、とくに面白いと思ったポイントを2つだけ記しておきたい。
1点目は、『アエネーイス』は「母の喪失」(p. 71)の叙事詩と捉えることができる、ということ。「母」が参加する会話のうち、本作で最初に描かれるものは、ウェヌスとアエネーアースのそれ(第1歌314~410行)であるわけだが、ここで、ウェヌスは狩人の姿に変装しており、アエネーアースはずっと相手の正体に気づかないでいる。しかし、まさに会話が終わり、ウェヌスがその場を立ち去ろうとするときに、アエネーアースは、目の前の女性が自分の母親であることに気づく。McAuleyが注目するのは、ここで彼が母親に向けて述べる「どうして手に手を握り、まことの言葉を聞き、また、返すことが許されないのですか」(第1歌408~409行、岡・高橋訳)という言葉だ。返答を得られないアエネーアースは、このようにして母を失ったまま、放浪を続けることになる。もうひとつ、これよりさらにMcAuleyが強調するのが、第2歌における、アエネーアース一家のトロイアー脱出の場面だ。もはやトロイアー陥落が決定的になったとき、アエネーアースは家族とともに逃亡を開始するわけだが、そこでは、アンキーセース・アエネーアース・アスカニウスという「男の三世代」がひとまとめにされ、「(アスカニウスの)母」のクレウーサは、「離れてあとを追って」(第2歌711行、同上)いった結果、途中で彼らからはぐれ、都とともに消え去ってしまう。「父」(=最高神ユッピテル)の命令にしたがうアエネーアースの旅においては、このように「母の喪失」が強調されるわけだ。
2点目は、『アエネーイス』を「母」の立場で読むことの重要性を指摘していること。McAuleyは、まず作品の「内部」に目を向け、「(アエネーアースの)母」であるウェヌスが、未来のローマにかんするユッピテルの予言に耳を傾ける場面(第1歌227~296行)を取り上げる。ユッピテルの話は、『アエネーイス』の物語の縮図になっていると考えることができるので、いうならばウェヌスは本作の「読者」の役割を演じているわけだ。これに加えMcAuleyは作品の「外部」にいる、オクターウィア―初代ローマ皇帝アウグストゥスの姉―にスポットライトを当てる。『ウェルギリウス伝』(後4世紀)のなかに、この女性が、ウェルギリウス本人が朗誦する『アエネーイス』の第6歌を、弟(=アウグストゥス)とともに聴いた、という記述(第31節)があるのだ。そしてその伝えによれば、ウェルギリウスが「ああ、惜しまれるべき子よ、厳しい運命を少しでも打ち破れればよいのに。そなたこそがマルケッルスとなるのだ」(第6歌882~883行、同上(一部改変))という詩行を読んだ瞬間、オクターウィアは気絶してしまった(!)―彼女は、このマルケッルスという、前途有望であったものの早世してしまった人物の母親だった―という(下にある絵は、まさにその場面を描いた、アンゲリカ・カオフマンの《アウグストゥスとオクターウィアに『アエネーイス』を読むウェルギリウス》(1788年、エルミタージュ美術館蔵)だ)。McAuleyによれば、『アエネーイス』の読者として、このウェヌスとオクターウィアという二人の「母」が共通して体験するのは、「個人的苦痛と政治的栄光の相互作用」(p. 92)ということだ。彼女たちは、自分の息子の運命を嘆くと同時に、その同じ息子の社会的成功を祈っているわけだ。この2つの要素は、『アエネーイス』の読解において、しばしば相容れないものとみなされる(いわゆる「二声論」の議論はその代表だろう)が、ここでMcAuleyは、精神分析家メラニー・クラインの「対象関係論」をヒントとした、「代償reparation」(p. 93)的読解なるものを提案する。クラインによれば、幼児は、最初は母親にたいし不満を覚えているが、のちに、なんらかの「代償」行為(ex. 攻撃性をともなう夢想)をつうじて、母親というのは、不快な存在であると同時に満足感を与えてくれる存在でもある、という矛盾を受け入れられるようになる、という。この「代償」の理論を用いるとすると、ウェヌスとオクターウィアが『アエネーイス』のなかに読み込んだ2つのこと―(息子をめぐる)「個人的苦痛と政治的栄光」―は、けっして相互排他的なものではなく、融和しうるものということになる。
『アエネーイス』における「母」を精神分析の観点で分析する、というMcAuleyの試みは、わかりづらい部分もあったが、全般的にはきわめて刺激的なものだった。批評理論を用いて文学作品を読むことの面白さをあらためて感じることができ、とても満足している。
【参考文献】
岡道男・高橋宏幸(訳)『ウェルギリウス アエネーイス』京都大学学術出版会、2001年。