夏目玲司の比較~無相獣~
本作の量子力学に関する言及について、一部誇張したものがあります。現実の学問的理解と異なる解釈である可能性がありますので、ご承知おきください。
0:はト書きの意味です。
0:倫巴モノローグ
有栖川倫巴:忘れていることがある。
有栖川倫巴:いつかみた微睡みの終わりの風景。
有栖川倫巴:熱に浮かされて幻視した泡沫の夢。
有栖川倫巴:いろんな夢と、それに繋がる憧れのうち、望ましいほど、忘れているのだと思う。
有栖川倫巴:それは理想的で、特別で、目に焼き付けるにはまぶしすぎて。
有栖川倫巴:忘れることが出来るから、このちっぽけな人生に安心していられる。
有栖川倫巴:でも、忘れられないこともたくさんあって、纏わりついて離れてくれないものもある。
有栖川倫巴:これは、諦めてしまえば楽なのに、それでも、手を伸ばさない自分を嫌ってしまいそうな
有栖川倫巴:いつか、こういう自分が居たと、笑い話に出来たならと思うような
有栖川倫巴:そんな他愛もない、もしもの話。
こんにちは、なりたかった私。
さようなら、なれなかった私。
0:冬、猛吹雪の日、事務所内。止まってしまった暖房器具を何とかしようと懸命に機器をいじる探偵
有栖川倫巴:「どうです?玲司さん。動きそうですか?」
夏目玲司:「っと…あぁ、もう少しで直るはずだ。ここを…こう…」
有栖川倫巴:「そう言って、もう1時間は経ちますよ?この寒さで手もかじかんできますし、ご無理はなさらないほうが」
夏目玲司:「理論上では、これで動くはずだが」
有栖川倫巴:「理論だけで、何もかもうまくいくわけではないですから」
夏目玲司:「むぅ。仕方あるまい。修理は諦めよう。倉庫からストーブを持ってくる、少し待っていたまえ」
有栖川倫巴:「私も行きます」
夏目玲司:「座っていて構わないよ」
有栖川倫巴:「いえ、少し体を動かしたほうがマシですから」
夏目玲司:「そうか、では頼む」
0:玄関脇のキーボックスから倉庫の鍵を取りながら事務所の扉を開ける玲司
夏目玲司:「倉庫はこっちだ」
有栖川倫巴:「うぅっ。やっぱり扉一枚でも大違いですね」
夏目玲司:「夏の熱さが恋し…いや、あれはあれで地獄だな」
有栖川倫巴:「どっちが好きですか?」
夏目玲司:「どちらも好みではないね。そもそも人間の過ごしやすい気温からそれぞれ離れるシーズンじゃあないか。暑さも寒さも、度が過ぎれば死因にさえなり得る。つまり人命を奪い去る凶器だよ。熱中症で死ぬのも低体温症で凍死するのも願い下げだ」
有栖川倫巴:「強いて言えば、どっちです?」
夏目玲司:「つまらん質問だね。冬だ」
有栖川倫巴:「理由を聞いても?」
夏目玲司:「三つある。まず、インドア趣味に世間が寛容になる」
有栖川倫巴:「確かに、こたつで丸くなるのも醍醐味ですよね」
夏目玲司:「もう一つは、星が綺麗に見えるからだ」
有栖川倫巴:「へぇ…」
夏目玲司:「なんだい倫巴君。意外かい?」
有栖川倫巴:「はい。なんだかすごく、ロマンチストみたいなセリフだなって」
夏目玲司:「だが、天体観測をする科学者だって、合理性のもとで同じ答えを口にするだろう。星にロマンを感じることは否定しないが、そこにロマン以外の理由だってあるさ」
有栖川倫巴:「ロマン以外の理由、ですか」
夏目玲司:「まさに、三つ目の理由がそれだな」
有栖川倫巴:「ちょっと待ってください、当ててみます。んー、あっ!お鍋がおいしい!」
夏目玲司:「正解は、夏は陽キャがやかましい、だ」
0:倉庫に到着する二人。扉を開ける玲司。
夏目玲司:「さて、ここだ。ほら、少し古いが、小難しい電子機器なんかよりよほど信頼性のある原始的なものだ。十分役目を果たしてくれるさ」
有栖川倫巴:「その前に…予想はしてましたけど、やっぱり散らかってますね、倉庫の中」
夏目玲司:「何を言うかと思えば。倉庫に収納された時点で片付けられているということじゃないか」
有栖川倫巴:「整理整頓されているとは言い難いこの現状を前に、まだ反論なさるおつもりですか?この辺の書類とかどけないと、取り出せないのは明白だと思いますけど」
夏目玲司:「わかったよ。
夏目玲司:(小声で独り言のように)だから待っていていいと言ったんだ」
有栖川倫巴:「さぁ、この紙の山は玲司さんがどけてくださいね」
夏目玲司:「わかったわかった。っしょっと。ん?これは」
有栖川倫巴:「ふぅ。これで取り出せるかな。玲司さんもこっち持ってくださ――って、なんです?そのノート?」
夏目玲司:「いやね、ちょっとした記録だよ。それより倫巴君、無理はしなくていいさ。か弱い乙女にこんな重いものを持たせるわけには――」
有栖川倫巴:「構いません、半分持ちます。ちょうど持ち上げるための大きい取手もついてますし、一緒に持ちましょう」
夏目玲司:「いやいや、これくらい私一人でも――」
有栖川倫巴:「持ちます。半分」
夏目玲司:「そ、そうかい。まぁ、じゃあよろしく頼むよ」
有栖川倫巴:「はい」
0:場面転換、部屋に戻り着火のため火をつける玲司と業者に電話する倫巴。玲司の喫煙用ライターで着火。
0:ライターの着火音とストーブに火が回る音
0:倫巴電話
有栖川倫巴:「はい、はい。そこです。すみません、こんな雪の中。はい、よろしくお願いいたします。
0:電話切れる
有栖川倫巴:「玲司さん、業者さんたまたま近くで同じような対応してるらしくて、割とすぐ来てくれるかもです」
夏目玲司:「それは僥倖だ。それまではこのストーブが生命線だな」
有栖川倫巴:「ふぅ。古いストーブでも、あるのとないのとじゃ全然違いますね」
夏目玲司:「油臭いのと使い勝手が悪いのには、目と鼻を閉ざしておくことにしよう」
有栖川倫巴:「贅沢言えるタイミングじゃないですからね。それに、この独特のにおいとか、私は割と好きです」
夏目玲司:「芳醇な紫煙の香りには遠く及ばんがね」
有栖川倫巴:「それより玲司さん、さっきのノート、倉庫から持ってきたんですね」
夏目玲司:「ああ。ちょっと懐かしい気分になってね。どうせ修理業者が来るまではストーブの前で縮こまるくらいしかやることもないし、思い返すのも悪くはない」
有栖川倫巴:「何を書き留めてあるんですか?学生時代の研究ノート、みたいな風に見えますけど」
夏目玲司:「概ねあっている。これは感情のメモだ」
有栖川倫巴:「感情の?」
夏目玲司:「私が今ほど他人の感情をうまく追想――トレース出来なかった頃に、それをできるようにするために研究していたものだ。
夏目玲司:どんな時、どんな状況で、どんな見た目の人が、どんな感情を発露させ、それが周囲と自身にどう影響していたか。そういったものをひたすら観察しては記録していた。今となっては懐かしい話だ」
有栖川倫巴:「なるほど。玲司さんも、最初からあんな人間離れした特技があったわけじゃないんですね」
夏目玲司:「それはそうさ。私は映画の登場人物じゃない。あくまで今日までの積み重ねの先端にいるだけの、一人の人間だよ。その中でも稀有な秀才というだけでね」
有栖川倫巴:「でも、流石にそんなことを意識的にやってる人は珍しいと思いますけど」
夏目玲司:「そうだろうね。同じ人間でも、同じ性質は持ちえない。千差万別、多様な在り方が霊長たる所以の一つだよ。
夏目玲司:時に倫巴君。君は、比べるという行為は好きかい?」
有栖川倫巴:「比べるという、行為?」
夏目玲司:「そう。美醜を、優劣を、善悪を―――人は、比べたがるものだろう?」
有栖川倫巴:「私は――嫌いです。比べることも、比べられることも」
夏目玲司:「まあ、大抵の人はそうだろう。好きです、なんて答える人間は稀だ。だが、人は意識せずとも物事を相対的に見ている。いや、人である前提に、比較するという能力がある、というべきか」
有栖川倫巴:「比べることが当たり前―――そうかもしれませんけど、あまり意識的にはしたくないことですね」
夏目玲司:「何故だい?」
有栖川倫巴:「良いことばかりじゃないからです。なんか、点数をつけるみたいで、ちょっと」
夏目玲司:「でも、見知らぬ土地に旅行に行くのに、旅館の評価は気にするだろう?」
有栖川倫巴:「それはまあ、そうですけれど」
夏目玲司:「安心したまえ。人は比較する生き物だ。それも無意識に、自動的に、多彩にね。自分と相手が違う人間であるということが認識できなければ社会は成立しないし、それを認識するためにはその相違点を把握しなければならない」
有栖川倫巴:「自分と相手の違い――言われてみれば確かに、顔の造形、声音、身長、私たちは、いろんな情報を一瞬で処理して、その人が『その人』なんだって、無意識に判断してますね」
夏目玲司:「ああ。どんなに見た目が似ていても、全く同じ人間はいない。私と同程度の眉目秀麗な人物がいたとして、かつてこのノートに他者の感情を書き連ねてきたのは私だけだ」
有栖川倫巴:「ドッペルゲンガー、みたいなのはどうなんでしょう?世の中には自分と本当にそっくりそのままな人が3人いるっていうじゃないですか」
夏目玲司:「倫巴君、ちょっと顔をこっちに向けたまえ」
有栖川倫巴:「顔ですか?はい」
0:玲司、倫巴の眼を見据える。3秒沈黙
有栖川倫巴:「あ、あの玲司さん?そんなにじっと目を見られても、なんというか…」
0:このセリフ中も玲司は目をそらしておらず、8.2秒の間視線があっていて、次のセリフで笑いながら目をそらす玲司
夏目玲司:「ふっ、あっはっは、いやすまんすまん。どうだい?数秒間他人と無言で視線を合わせていた感想は?」
有栖川倫巴:「顔が熱くなってきました」
夏目玲司:「寒さに凍える今の私たちには、良いことじゃないか。
夏目玲司:さて、話を戻そう。君の目線は、私の目線とあっていた。この間、他の誰が同じようにしようとしても無理だ。既に君の目は私の目を見ているからね。たとえ、どんなに私に酷似した人間が隣に居たとしても、君が一度に目を合わせられるのはその中の一人だけだ」
有栖川倫巴:「その為だけに、変なコトしないでください」
夏目玲司:「だから謝っただろう?」
有栖川倫巴:「まだ変な緊張が残ってますよ、もぅ」
夏目玲司:「どんなに似た人でも、同じ場所に存在することはできない。上手く区別、比較することで、その混乱は避けられる」
有栖川倫巴:「今この瞬間、ここに存在するということさえ、上手に区別するための情報になるということですか」
夏目玲司:「まだだ」
有栖川倫巴:「?」
夏目玲司:「まだだよ、倫巴君。私たちにはまだ、比べることのできるものがある。なんだと思う?」
有栖川倫巴:「…さすがにヒントが少ないのではないですか、玲司さん」
夏目玲司:「ふふん、正解を聞いてしまえばなんてことはないさ。答えは記憶だよ。正確には、脳内の情報かな」
有栖川倫巴:「あっ、雑談の中で、似ている芸能人の話をしたりする時ってありますものね。今そこにいる人と、記憶の中の芸能人を比べているということですか」
夏目玲司:「そう。記憶の中の、今はそこに存在しないものの情報と、今得たばかりの情報を比べることが出来る。厳密には、結局脳内で情報を比較しているわけだから、形而上的存在の差異を個別に認識しそれにより―」
有栖川倫巴:「(セリフをかぶせて)また悪い癖が出てますよ、玲司さん」
夏目玲司:「ふむ、倫巴君。君は並行世界――パラレルワールドを信じるかい?」
有栖川倫巴:「並行、世界」
夏目玲司:「ああ。無限に広がる、if(イフ)の世界さ」
有栖川倫巴:「またなんというか、荒唐無稽ですね」
夏目玲司:「概念は理解しているだろう?」
有栖川倫巴:「この世界とは違う世界、まるっきり歴史が違ったり、ちょっとだけ何かが異なっていたりする別次元の世界線、みたいな認識ですけど…あっていますか?あんまり真剣に考えたことがないので、ちゃんと理解できているかと言われると」
夏目玲司:「いや、あっているよ。一般的に認識されている、普通の理解度という意味で、これ以上ないくらいね」
有栖川倫巴:「普通――まぁ、あっているならそれでいいですけれど。
有栖川倫巴:信じるか、ですか。いつかの、幽霊や魂の話に近い感覚かもしれません。否定するほどではないし、あったのなら面白いと思います。誰だって、もっとお金持ちの家に生まれていたらとか、もっと素敵な外見だったらとか、そういうのは考えたことあるでしょうから」
夏目玲司:「そう、今この現実にないものを求めて想像を膨らませる。これは至極当然の心の働きだ。誰だって、今の人生に満足することはないのだからね」
有栖川倫巴:「それは、人によってはそうは限らないのでは?無欲な人だっていらっしゃいますし、質素な暮らしを好む人だっていると思いますけれど」
夏目玲司:「人の幸せが、個人の中だけでで完結するならそういうこともあるかもしれない。だが人はいつだって、他人との間に心を通わせて、その感情の運動によって幸福と不幸を押し付けあっている。樹海で一人仙人のような暮らしをしたところで、その相手が自然になるだけだ。
夏目玲司:人が生きる以上、心は動かされる。自分がコントロールできない外側の影響があるかぎり、今よりもっとこうだったらいいのにという願いは必ず生まれる。
夏目玲司:よって、人は『もしも』を考えずにはいられない。それはつまり、この現実ではない世界、並行世界に想いを馳せることに他ならない」
有栖川倫巴:「まあ、言いようによってはそういうことになりますね。並行世界、なんて言葉でわざわざ括って考えているかと言われればピンと来ないですけど、こうだったらいいのになって思うことは、たくさんありますし」
夏目玲司:「つまりほら、比べているだろう?」
有栖川倫巴:「えっと…今ここで見聞きしたことでも、いつか見た芸能人の顔でもなく、もしもの自分とってことですか」
夏目玲司:「そうだ。故に人は当たり前に比較しているのさ。何処かに居る誰かとでも、何処にも居ない何者かとさえね」
有栖川倫巴:「そう聞くと、確かに納得できるかもしれません。どんな人も、何かを比べながら生きていると。並行世界なんて言われると、魂よりももっとフィクション性が強い感じはしますけれど」
夏目玲司:「いや、あるよ。並行世界は」
有栖川倫巴:「え?―――その、本当に実在するのですか?ここではないもしもの、並行世界が?」
夏目玲司:「量子力学、というのは聞いたことあるかな?身近ではないだろうが、そうだな――量子コンピューターとか、シュレディンガーの猫とか」
有栖川倫巴:「聞いたことはあります。でも、それこそ小説や映画、フィクションの中で見聞きするワードです」
夏目玲司:「私も専門ではないがね。私たちが義務教育で習うニュートン力学は正しくないんだ。エネルギー保存則もね」
有栖川倫巴:「義務教育の内容が、間違っているんですか?」
夏目玲司:「実際のところ、それらの式は誤った回答をはじき出す場合を含んでいる。ただし、通常人間が知覚できる世界においてその誤差は僅かで、無視できてしまうから、ニュートン力学もエネルギー保存則も通用してしまっている、というのが正しい」
有栖川倫巴:「厳密には違うけれど、キャッチボールをするときにボールを投げる計算をするのには十分使える、ということですか?」
夏目玲司:「そうだ。そしてその『厳密には』の部分を突き詰めていくと、量子力学的には並行世界は『無いとおかしい』という結論にたどり着くらしい」
有栖川倫巴:「並行世界が、無いとおかしい」
夏目玲司:「ああ、なんといっても、既に観測されているからね」
有栖川倫巴:「もしもの世界が、もう見つかっている―――やっぱり、すぐには馴染まないですね。一般的な考え方と、かなり離れている気がします」
夏目玲司:「ここで量子力学の講座を開いてもいいのだがね。詳しくは二重スリット実験で調べたまえ」
有栖川倫巴:「その実験で、並行世界がみつかったんですか?」
夏目玲司:「Aという世界とBという世界が、重ね合わさっているという状況を見つけた、かな。だが、それは間違いなく、世界が二つ無いと説明がつかないものだった」
有栖川倫巴:「では、本当に私じゃない私が居る世界も…」
夏目玲司:「『きっとあるだろう』『無いという説明はできない』『だがその世界に干渉することはできない』というのが、今のところ科学がたどり着いた答えだ」
有栖川倫巴:「へぇ…もしもの世界がきっとある。そう聞くと、少しだけワクワクしますね」
夏目玲司:「そうだね。しかもそれは無数にあるとされている。今の君と髪の毛一本分だけ違う世界も、君が男子として生まれてきた世界も、あってもおかしくはない。私たちには知覚できないだけでね」
有栖川倫巴:「じゃあ、玲司さんが女性の世界もあるかもしれないですね」
夏目玲司:「そうなってくると、どこまでの変化ならその人だと言えるか、というテセウスの船じみた問いも生じるがね」
有栖川倫巴:「そうか。その時はたぶん、私は倫巴じゃないし、玲司さんは玲司さんじゃないでしょうね」
夏目玲司:「名前以外にも、体のつくり、外的要因、歩む人生、いろんなものが異なるだろう」
有栖川倫巴:「そうですね。毎日の経験も少しずつズレて、考え方も、出会う人も違うかもしれない」
夏目玲司:「だから、もし女の私がこの事務所を開き、男の子の君が助手になるとしても、確率はかなり低いだろうね」
有栖川倫巴:「じゃあ、それでももしそうなってたなら、私達がこうしているのは運命だったってことですね」
夏目玲司:「おっと倫巴君、今度は君がロマンチストになるターンかな?」
有栖川倫巴:「ロマンばっかりってわけでもないと思います。玲司さんの話をそのまま解釈しただけですから。無数にあって、でもどこかにはある。しかも、そちらのパラレルワールドの私達から見たら、今ここに居る私達も、無数にあるうちの一つで、こうしているのは奇跡みたいなものだと思えます」
夏目玲司:「まぁ、そうとも言えるか」
有栖川倫巴:「はい。運命の出会いです」
夏目玲司:「いささか盛りすぎではないかい?」
有栖川倫巴:「ふふっ、そんなことはないです」
夏目玲司:「あまりに強気に言い切るね。数秒見つめあうよりよほど恥ずかしいセリフを言っているように思えるのは、私だけらしい」
有栖川倫巴:「そもそも、並行世界のとてつもなく低い確率の話を持ち出したのは玲司さんですよ?」
夏目玲司:「まったく。だが、開き直ってしまえばそういうことだ。私たちは無数の可能性のなかに揺蕩う『ゆらぎ』のようなもので、いつだって比較し、されることで自身という個を確立して生きている」
有栖川倫巴:「比べることが人の本質、前提だっていうのは納得できた、と思います」
夏目玲司:「君が嫌悪感を感じたとおり、比較は優劣の判定を伴う場合も多い。だが、それは相対的な話だ。より劣るものを横に並べれば話は変わる。自分より少し不細工な同性をつれて合コンに行けば、その場において自分が成功しやすくなるという例もある」
有栖川倫巴:「身もふたもない…」
夏目玲司:「良いも悪いもなく、ただ悪いような気がする場合があるだけなんだよ」
有栖川倫巴:「でも、残念ですね。並行世界はきっとあるってわかっているのに、影響を与え合うことはできないなんて」
夏目玲司:「想像力が今一つだね、倫巴君」
有栖川倫巴:「はい?」
夏目玲司:「並行世界の中に、他の並行世界を覗くことが出来る並行世界があるとしたら?」
有栖川倫巴:「え、ということは、今この会話も、誰かに見られているかもしれないということですか?それはちょっと、プライバシーの観点から良くないです!」
夏目玲司:「だが、それを知る術はこちらにはない」
有栖川倫巴:「せっかくの二人だけの時間なのに……一方的ですね」
夏目玲司:「そんなことはない。君も覗けばいい」
有栖川倫巴:「え?」
夏目玲司:「想像するのさ。君がもっと経済的に裕福な世界、学力がはるかに高い世界、異性にモテまくりの世界。並行世界が無数にあるのなら、それは、きっとあるのだから」
有栖川倫巴:「今のこの私ではない、可能性上の私を想像するだけで、並行世界の自分を見たことになる、そういうことですか?」
夏目玲司:「そうだ」
有栖川倫巴:「――ちょっと屁理屈っぽくないですか?」
夏目玲司:「失敬な。理屈はちゃんと通っていただろう」
有栖川倫巴:「そうかな…」
夏目玲司:「都合よく考えていいんだよ、どうせ干渉できない並行世界の話なんだから。
夏目玲司:それに、こういう新しい価値観の話というのは、聞いてるだけでも面白いものさ。ただの暇つぶしの無駄話が並行世界の誰かに届き、無駄にならないのならそれはそれで良いじゃないか」
有栖川倫巴:「本当に、届くのなら、ですよね」
夏目玲司:「ん?」
有栖川倫巴:「先ほど、玲司さん言ってましたよね?私たちは無数の可能性のなかに揺蕩う『ゆらぎ』のようなものだって。
有栖川倫巴:並行世界は存在する。でも、私たちはそれを見たり、声を届けたりはできない。『あるかもしれない』という可能性は、『ないかもしれない』という可能性と常にとなり合わせです。何かの誤差でたまたま揺らいで、そのエラーから生まれた欠陥品みたいな私達が、届くかさえ不確かな『何か』を届けようとすることって、本当に無駄では無いと言えるのでしょうか?」
夏目玲司:「倫巴君、君は――あきれ返るほどに普通で、面白くないな」
有栖川倫巴:「…」
夏目玲司:「この世の中に、意味のあるもの、無駄ではないもの、面白いもの『そのもの』なんてのはね、一つも無いのさ」
有栖川倫巴:「え?」
夏目玲司:「だが、面白くないことを面白くすることこそ人生だ。不便を便利に、醜悪を善良に、懊悩を愉悦に。何かと何かを比べて、より良い方を望み、積み重ねてきたのが人間だ。人の営みだ。
夏目玲司:いつだって人は、森羅万象見た目も中身も、自分たちの判断基準で比較してきたのだから」
有栖川倫巴:「意味も、価値も、後付けでしかないと、そういうことですか?」
夏目玲司:「後付けしあって、されあって、それが人だ。外見の価値も、内面の意義も、最初にそこにあるわけじゃない。だから、貌(かお)も容(かたち)も無い無相の獣の名を、人間というんだよ、倫巴君」
有栖川倫巴:「そして私は、今、面白くないと、『後付け』された」
夏目玲司:「ああ。そして君は、まだ生きている。生きているということは、まだ人生が終わっていないということ。つまり、後付けの余地があるということさ。
夏目玲司:以前言ったろう、変わっていけ、と。面白くない君は、まだ、面白い君になる『もしも』を秘めているのだから」
有栖川倫巴:「そっか、そうですよね。――玲司さん、私、憧れの人がいるんです」
夏目玲司:「ほぉ、そうかい。明確な目標があるのは良いことだ。目標地点と現在地点、存分に比較すると良い。憧れが遠いほど、比べることは残酷な行為になるが、それでも、冷静に双方を見つめることは、何をどう変化させるべきかのヒントを得ることに繋がる」
有栖川倫巴:「はい。これからも、近くでじっくり観察しようと思います」
夏目玲司:「結構なことだ。まあ、他愛もないことをあれこれと話したが――」
0:インターホンが鳴る
夏目玲司:「君が変化のための努力をするのなら、暖かい部屋という現実を引き寄せるための努力は、私の担当かな。業者の相手をしている間、君はストーブの火の様子を見ていてくれたまえ」
0:玲司、ソファから立ち上がりつつやってきた空調修理業者への対応のため動き出す
有栖川倫巴:「はい、お任せください」
0:倫巴、ストーブに当たる手の指の隙間から、揺らめく火を見つめて独り言
有栖川倫巴:「この『ゆらぎ』を、まだ見ていたいので」
0:倫巴モノローグ
有栖川倫巴:忘れていることがある。
有栖川倫巴:小さいころに書いた、将来の夢。
有栖川倫巴:嫉妬という感情を知る前の、純粋な憧憬。
有栖川倫巴:いろんな夢と、それに繋がる憧れのうち、望んだものほど、忘れたがっているのだと思う。
有栖川倫巴:なりたい自分になれる人なんて限られているし、目指す場所が遠いほど、自分の弱さが嫌になる。
有栖川倫巴:それでも、そうありたいと願った最初の一滴は、きっと世界で一番透明で、誰にも見えない涙だったから。
有栖川倫巴:これは、諦めてしまえば楽なのに、それでも、手を伸ばさない自分を嫌ってしまいそうな。
有栖川倫巴:いつかこういう自分が居たと、笑い話に出来たならと思うような
有栖川倫巴:そんな他愛もない、もしもの話。
有栖川倫巴:こんにちは、なりたかった私。
有栖川倫巴:さようなら、なれなかった私。
有栖川倫巴:待っていて、今の私が希(こいねが)う、いつかの私。
0:終幕