口はわざわいのもと(平成31年3月法話)
昔、お釈迦様が阿難を連れて王舎城を乞食し終わって城外に出られた時のことである。
そこに城内の人々が大小便を捨てる大きな深い穴があって、雨水や汚水が流れ込んで、いっぱいになっていた。
その中に、人間の形に似て、多くの手足を持った一匹の小虫がいた。
はるかに仏のお出でになるのを見て、水中から頭をもたげ、目にいっぱい涙をたたえて仰ぎ見た。
お釈迦様はこの様子をご覧になって、哀れみのまなざしに悲しそうな面持ちをされたのを、阿難は見逃さなかった。
やがて、仏は霊鷲山に帰られ、阿難が供えた敷物の上に静かに正座された。
阿難は先ほど仏が、小虫を見て哀れまれた時に悲しそうな顔をされた疑いを聞きたいものと、皆を代表して尋ねた。
「世尊よ。先ほど王舎城外で便所の水の中の小虫をご覧になりましたが、あれは前世にどんな悪業を作ったのでしょうか。
いつから、あんな汚い水の中に生まれたのでしょう。
また、いつになったら、あの苦しみから逃れることが出来るのでありましょうか」
「阿難よ。よく聞くがよい。他の者も聞くがよい。いま哀れな彼の因縁話をして聞かせよう」とお釈迦様はおもむろに、次の事を話された。
昔、仏が出現され、生きとし生ける全てのものを教化し終わって、入滅された後の事である。
1人のバラモンがあって、寺を建てて多くの僧に供養した。
檀家の1人からも、たくさんの乳製品の供養があった。
時に、多くの客僧がこの寺を訪れて来たので、この寺の接待僧はこう思った。
「せっかく檀家からたくさん供養されたのに、いらざる人達が来て、惜しいことだ。
いっそう隠して、食わせずにおこう」と思って、
接待僧は例の乳製品を隠して客僧達の食膳に添えなかった。
客僧達はかねての事を知っていたので、この事についてその接待僧を責めた。
「なぜ、乳製品を私どもにくれないのですか」
「お前さん達は新米の客僧、私は古くから住んでいる主の僧だ。
新米にはご馳走などいらないのだ」
「乳製品は檀家のお供養ではありませんか。現に寺に居る者には、誰かれの区別なく施すべきものではありませんか」
客僧達に責められて、接待僧はますます怒った。ついには彼は自制の心を失って、さんざん悪口を言った挙句、
「お前達は便所の水を飲むがよい。乳製品なんてご馳走が過ぎている」
ここまで話し終わって、仏は言われた。
「悪口をたたいた悪の報いとして、それから後、何百何千もの長い間、
彼は便所の水の中に生まれたのだ。王舎城外の小虫がそれなのだ。
彼はたった一度、多くの僧に悪口を言ったばかりに、この苦しみを受けたのである。
わが弟子達は、口はわざわいのもと、この身を焼く猛火だと知って、
深く慎み、父母や多くの人々に対して、常に優しい言葉を用いなければならない」
仏の説法を聞いて、一座の者は深く感激して、各々合掌して仏を礼拝し、静かにそこを去って行った。
むやみに欲心を起こし、ひと時といえども、それがために悪口を言うなかれ、という霊験あらたかな話である。
(仏教説話文学全集から)
☆ ☆
お釈迦様の説話には、前世の話が出てくることがあります。
その場合、私達は前世と同じ過ちを繰り返しているように思えます。
その同じ過ちを、仏様は何度も何度も繰り返し、私達に教えて下さっておられるように思います。
自分が過っていることは何か?自分の人生の宿題は何か?
それを見つけること、それをクリアしていくこと。
それが出来れば、見事「卒業」です。