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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 2 (17/3/19) Castle Ruins in Settsu 摂津地区 城巡り

2019.03.17 16:14

Noda Castle Ruins 野田城跡

Amagasaki Castle Ruins 尼崎城跡

Tsukaguchi Castle Ruins 塚口城跡

Tomatsu Castle Ruins 富松城跡

Nanatsumatsu Castle Ruins 七松城跡

Komatsu Castle Ruins 小松城跡

Kawarabayashi Castle Ruins 瓦林城跡

朝 6時に梅田のバスターミナルに到着し、自転車を組み立てを行う。今回はバスなので後輪は外さず前輪をハンドルフレームごと外して運んだ。これだと組み立ては随分楽になった。組み立てが終わりいざ出発になると雨が降り出した。これ以降もこの日は雨が降ったり、やんだり。気温は低く日中でも11度だった。かなり寒く感じる。旅の初日はいつも雨。雨男なのだろう。長い旅なので雨は避けられないので、特に気にせず出発!

やはり大阪だ。さっそくビリケンに出くわした。Billikenは元々はアメリカのデザイナーによってつくられ、明治時代に日本に伝わってきた。まず目をつけたのが、大阪商人で商売繁昌の神様のようになった。実際は国を超えての幸せをもたらすものだったが、大阪中心に流行したので、ビリケンといえば大阪のイメージが強い。

Noda Castle Ruins 野田城跡

戦国時代に三好三人衆が織田信長と戦った城の一つ。石山本願寺もこれに呼応して8000人もの兵士がこの城にいたと言われる。結局は信長により落城するのだが、その後も大阪の役で戦闘拠点として使用されていた。

淀川を渡る。橋には5mおきにに飛び込み禁止の看板。やはり大阪だ。とかく大阪の若者は何かあると川に飛び込みたがる。危険な川じゃなければ大いにやるべし。喜びを体全体で表すのは良いことだ。8割方はウケを狙ってはいるのだが。こんな看板は大阪だけだろう。

Amagasaki Castle Ruins 尼崎城跡

今この城は尼崎ではホットな話題だ。酔狂なプロジェクトが行われていた。旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保詮が約10億円の私財を出して天守を再建し尼崎市に寄贈し、その公開がこの3月29日に迫っている。現在城は完成してこのプロジェクトに寄付をした人へお披露目をしている。城の周りは公園になる予定でその整備はまだ続行していた。というわけで、外観のみ柵越しにしかみられなかった。城を再建している場所は本来城のあった所とは少し離れている。元の場所は小学校になっている。

ミドリ電化はよっぽど儲かっていたのだろう。多分10億円は大した額では無かったと思う。寄贈だからそれなりの会計処理ができるだろう。創業者としては何か残したかったのかもしれない。ただ日本人にとって城は特別な意味があると思う。江戸時代つまり僅か150年前までは、どこに行っても城があった。小さな藩が日本中にいっぱいあり、住民は地域のシンボルであった城を毎日見ながら生活していた。江戸時代には城は戦争の為の意味合いはなくなり、美しい芸術品として地域に象徴と変化していった。だから、日本人にとって城に対しての思いは特別だ。さなざまばところで、復興天守や模擬天守が造られている。何の役にも立たないものを巨額に税金を投じて造っている。反対する人み多くいるが、やっぱり造っている。個人的見解は作る余裕があればあっても良いとと思う。それが子供達が過去の歴史に興味を持つ機会になるだろうから。

戦国時代は摂津を治めていた荒木村重の嫡子村次が城主。村重の謀反の際には戦場となった。江戸時代は尼崎藩の藩庁となり明治まで続いた。再建している天守は江戸時代はのものだ。

このポスターもまさに大阪らしくていい!

Tsukaguchi Castle Ruins 塚口城跡

一向一揆勢がここに兵を置いていた。石山本願寺はのちの大坂城の場所にあったので、一向衆は本願寺の周りに防御施設が何箇所かあったであろう。少し掘り下げて見たいのはどのような経緯で仏教寺院が 武装することに至ったのだろう。平安鎌倉時代から僧兵はいたのだが、石山本願寺反対一つの国程の組織であった。ここは継続探求とする。

Tomatsu Castle Ruins 富松城跡

この城は長期で城主がいたわけではなく、戦乱のたびに、戦闘拠点として使われていた。

目を引いたのは富松城を守ろうという看板。これは何を意味するのだろうか?

インターネット場でその答えがあった。富松城を生かすまちづくり委員会なるものがあり、子供達に地域の遺産を通して学んで欲しいということだった。インターネット上にヴァーチャル博物館を作っている。これは良いアイデアだ。建物での博物館は経済的に大変だが、インターネット場であれば柔軟に対応できるし、なによりも安く抑えられる。維持継続が比較的容易になる。九州に旅で、今まででベストのヴァーチャル博物館は熊本県の菊池市が作っている菊池一族の歴史館。これは綺麗で色々なアイデアが盛り込まれており立派だった。

Nanatsumatsu Castle Ruins 七松城跡

荒木村重所縁の地とある。確かにこの地方は荒木村重が勢力を持っていた。本城は伊丹城で嫡男の村次が今日訪れた尼崎城にいた。荒木村重は黒田官兵衛の大河ドラマで重要なキャストとして登場しているのだが、織田信長に惚れ込んで家来となったがその後離反し、謀反を起こした。官兵衛が説得に行き幽閉された事は有名。村重の行動は不可解な事が多い。謀反は丁度、三木城を責めているときだった。これは織田対毛利の戦いで、摂津を任されていた村重が毛利側に着くと三木城を責めていた秀吉は孤立して前後から挟み撃ちにされる。信長の元では将来がないと思ったのかもしれない。織田勢に伊丹城を責められたときに単身で尼崎に逃亡し、家族や家臣を見捨て、その人々がこの七松城で処刑された。その後も村重は生き延び、茶人として秀吉に使え、その後身の危険を感じると出家してしまった。この大まかな変遷を見ると人として尊敬出来ない。一時は一国一城の大名となり将来に野心があっただろうが、その後は卑屈な人生にような気がする。自分の都合で多くの身近な人たちを死に追いやった事はどう思っていたのか? のぼりに村重「公」とあるが、地元に人は荒木村重をどう評価しているのだろう?これも聞いてみたいが、多分ほとんどの人は無関心だろう。

Komatsu Castle Ruins 小松城跡

岡大社になっているが、以前は小松城で平清盛の息子の重盛の居城であったのではと考えられている。境内の供養塔は重盛のためのものではないかと言われてはいるが定かではない。よって「伝」と付け加えられている。ここは西宮で神戸を含めた摂津は平家の中心地で福原の都があったから、重盛ゆかりの地でもおかしくはない。そう思っていた方が面白い。

狛犬の代わりに狛猪。珍しい。ちゃんと阿吽になっている。

昔から猪だったのか聞きたかったが誰もおらず残念。

武庫川のサイクリングロードを走りつぎの訪問先に向かう。水鳥が水面を覆い尽くしている。

Kawarabayashi Castle Ruins 瓦林城跡

瓦林城は戦国時代の瓦林正頼の居城。 越水城が築城すると同時に居城も越水城に移し、以後越水城の支城になったと思われる。

最後は、瓦林正頼の子孫と思われている瓦林三河守である。織田信長方についていた瓦林三河守であったが、元亀元年(1570年)9月28日篠原長房より不意打ちにあい、防御施設が乏しかった瓦林城は一挙に攻め立てられ、106名が討ち死、その中女性や子供も20名程度おり、瓦林氏はこの時を最後に滅んでしまったと言われている。尚、この戦いは越水城ではなかったかという説もある。

今日は西宮のインターネットカフェに泊まり、明日神戸港から高松にフェリーで移動する。