わけのわけのわけのわけ
雨が降っては絶え間なく、これではじゃがいもや玉ねぎが掘れないだの、ぬかるんでトラクターで畑に入れずいつまでも耕せないだの、口を開けばこの長雨には文句ばかりで、だけども晴れても雨でも曇りでも、どんな様子だって天気に対してはいってやりたいことが山ほどあり、なにせ何をいっても一方通行で、ぼくらときたら翻弄されるほかないのだから、この巨大な権力にはむしろいいたいことははっきりいった方が気持ちの面でいくらかいいくらいなのですが、実はここ数年のうだる暑さの空梅雨と比べると、しっかり降ってる今年の梅雨は本当はまんざらでもなく、むしろこのどんよりした天気にはほとんど感謝してるくらいです。
天気予報はカオスで、というよりもカオスというのは天気予報のことだからままならないのは当然で、絶対に読み切れず、読み切れないのを前提に商売を組み立てるとなると、少なからず個人の適当具合がものをいうことになり、何もかも決まってしまっているよりかはずいぶん公平で、気楽な感じがしています。他の用事で取り掛かれずに遅れに遅れて予定通りに進まなかった作業でも、そんな天気の気まぐれで、災い転じるということがこれまでも幾度となくあり、その逆ももちろんあるし、フランツ・カフカが【巣穴】という名作で、こんなことをさらっといってのけています。
「生きるとはそういうこと、思案が堂々巡りするようだが、明晰な頭でいろいろ考えるからこそ堂々巡りをするのである。」
あらゆることに決め手を欠くぼくの思考は、この言葉にずいぶん共振し、「今日この天気でこの苗を植えちゃってもいいのか、否か」とぐずぐず迷っているときなんかは、まさにこのカフカの言葉の中にいて、このぐずぐずさは明晰さの証なのだと一人喜び、ああすればこうなるかもしれないけどそしたらあっちがこうなるし、いやそうはならないかもしれないし、と考えるだけ考えて最終的には色んなことをなんとなくで決めています。
論理とか理屈というものには案外そういう性質があり、残念ながら論理は論理に支えられていないので、ぼくはそのことをルイス・キャロルの【亀がアキレスにいったこと】というとても短い寓話から教えてもらったのですが、結局はとにもかくにもとりあえずで決める他ないのです。今日はこれからナスの畝間に防草シートを張りに行くのですがそれだって、「なんで?どうして?」とそのわけを子どもなんかにしつこく何度も追求されたらけっこう早い段階で「いや、なんとなく、、、」といってあとは黙るしかないのです。