自分が作品を作るのではない。自分という器を通して、何かが生まれてくる。
最近、マイケル・ジャクソンと藤井風が、創作について語る映像を立て続けに見た。
二人とも、自分が作品を作っているというよりは、「自分を通して何かが生まれてくる」というようなことを話していた。自分はただの楽器であり、器のようなものなのだ、と。
マイケルは、そのプロセスをこんな言葉で表現していた。
"Well, the process I go through is that songs kind of just come. They create themselves."
(自分が歌をつくるというよりも、歌がやってくるという感じです)
そして藤井風さんも、インタビューでこう答えていた。
"Do you see God as a songwriter? Absolutely, yeah, yeah. I didn't do anything. I never done anything. It's all God."
(神をソングライターだと思っているかって? もちろんです。僕は何もしていません。一度だって自分でしたことなんてない。すべては神様がしてくれたことです)
彼らの言葉に触れたことで、文章を書くときの自分の「状態」に、かすかな変化が生まれるようになった。
私は今、これを説明しようとしているのだろうか。
それとも、自分が受け取ったものを、そのまま言葉にしようとしているのだろうか。
その二つは、似ているようでいて、決定的に違う。
今年に入ってから、まだ見ぬ誰かにも届く文章を書きたいと思い、書き方を変えてきた。それに伴って、noteの更新も増やしている。
その中で反響があったのは、皮肉にも「役に立つこと」を教えようとした記事ではなかった。美術や音楽に心が震えたこと、自分自身の生々しい実体験をそのまま書いた記事だった。
バズを狙ったわけではない。ただ、見たものや感じたことを、自分の温度のままに置いた。けれど、そんな文章にこそ、見知らぬ人からの確かな手応えが還ってくるのだった。
一方で、何かを「説明しよう」とすると、途端に頭が忙しくなる。
どう書けば分かりやすいだろうか。どう組み立てれば伝わるだろう。どこまで補足すれば誤解されないだろうか。
もちろん、説明が必要な場面もある。けれど、頭でこねくり回して説明に躍起になればなるほど、自分が受け取った瞬間のあの鮮やかな温度から、みるみる離れていってしまう気がするのだ。
振り返れば、35歳からの日々が思い返される。
瞑想、身体の調整、一人旅、アート、そして毎日の執筆。
何か偉大なものを生み出すためではなかった。ただ、自分を整えたかった。
しかし、あの途方もない調律の時間こそが、私という「楽器」をメンテナンスし、世界から何かを受け取る力を育ててくれていたのだと、今ならよくわかる。
マイケルや藤井風の言葉は、私に新しい技術を教えてくれたわけではない。ただ、「いま、自分はどういう態度で書こうとしているのか」と、静かに立ち止まる視点をくれた。
説明か、それとも受け取ったものか。
これからの執筆、その違いをもう少し繊細に、指先で確かめるように書いていきたい。