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令和8年5月度 十三日御講 拝読御書

2026.07.16 20:32

『諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)』 

文永(ぶんえい)10(1273)年5月 聖寿52歳


此(こ)の文には日蓮が大事の法門どもかきて候(そうろう)ぞ。よくよく見ほど(解)かせ給へ、意得(こころえ)させ給ふべし。一閻浮提(いちえんぶだい)第一の御本尊を信じさせ給へ。あひ(相)かま(構)へて、あひ(相)かま(構)へて、信心つよく候ふて三仏(さんぶつ)の守護をかうむ(蒙)らせ給ふべし。行学の二道をはげみ候ふべし。行学た(絶)えなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化(きょうけ)候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。

(御書667㌻13〜668㌻3行目)


【背景・概要】

 本抄は、文永10(1273)年5月、日蓮大聖人様御年五十二歳の時、佐渡一谷(いちのさわ)の地より、同じく佐渡に在島していた弟子の最蓮房日浄(にちじょう)に与えられた御書です。

(最蓮房は、比叡山の学僧でしたが、何らかの理由によって佐渡に流され、大聖人様の弟子となりました。)

 大聖人様は竜口法難において発迹顕本(ほっしゃくけんぽん・迹(しゃく)を発(はら)って本を顕(あらわ)す)され、それ以後、御本仏とのお立場から妙法蓮華経の曼荼羅(まんだら)御本尊を御図顕(ごずけん)なされ、その御本尊様を信じ、題目を唱える修行こそ、末法の衆生が成仏する唯一の修行であると説かれてきました。また御本尊様には人本尊(にんほんぞん)と法本尊(ほうほんぞん)が存し、さらにその両者にあって人法体一(にんぽうたいいち)の深義(じんぎ)が存する旨を『開目抄』『観心本尊抄』にて示されています。

 本抄では、大聖人様が右記の重大な教義を示された御書であり、未曽有の御本尊様の深義をとおし、御本尊様に対する絶対の信のもと、さらなる教学の研鑽、折伏行に邁進することを強く勧められています。


【語句の解説】

一閻浮提・・・古代インドの世界観で、須弥山の回りに四州(東弗婆提(とうほつぼだい)・西瞿耶尼(さいくやに)・南閻浮提(なんえんぶだい)・北鬱単越(ほくうつたんのつ))のうちに南閻浮提のこと。

三仏…法華経『見宝塔品(けんぽうとうほん)第十一』に説かれる三種の仏(釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)・多宝仏・十方分身(じっぽうぶんとん)仏)のこと。

行学の二道・・・修行と教学で、行を修め仏の教えを学ぶこと。


〔通 釈〕

 この書には日蓮の大事な法門を種々書き記しているから、よく読解(どくげ)して内容を心得なさい。全世界第一の御本尊を信じなさい。しっかり心構えをして信心を強盛にし、三仏の守護を受けていきなさい。行学の二道に励みなさい。もし行と学の実践が途絶えれば、仏法は失われることになる。自らも実践し他の人をも教化(きょうけ)しなさい。

 行学は信心より起こるものである。力あれば一文一句でも他の人に(この法門を)語っていきなさい。


【御妙判を拝して】

 拝読の御妙判では、信行学の大事を御指南され、その中でも信が最も大事であると教えられています。

 総本山第六十六世日達上人は「一信(いっしん) 二行(にぎょう) 三学(さんがく)と、本宗では昔から言っているのである。第一に信、その次に行、それから学、学問。それならば、我々が教学の勉強をする必要がないと考えるけれども、それは間違いである。第一に成仏するか、我々が仏様に成るか成らないか、というのは根本は信である。この信を忘れてはいけない。また、行とか学というのは、その信を助ける助行になる。ゆえに学の力は三番目になるのです。信が第一、行とは手を合わせてお題目を唱える。信だけではなかなか難しい、私は信じているからいいんだなどと、遊んで寝ていたのではよくない、やはり手を合わせてお題目を唱え、お経を読む、あるいは座談会にもいく、お寺にも来る。そしてこの信を強くしていく。さらにもう一つ進んで行けば、学問をしなければならない。教学の勉強をしなければならない。どうしていなければならないかと申しますと、弛(ゆる)んでくるからです。ありがたいことに、信は初め誰にでも持てるのです。初随喜(しょずいき)によって、折伏された時、本当に喜ぶ、喜んだけれど、それによって行も学もしなければ、弛(ゆる)んでしまって、退転してしまうことになる。どうしても信を起こしたならば、行と学ということを励んでいかなければならないのであります」と、とにかく第一番が信であると教えられています。

 信なくして行と学ばかりに励む者は、どんな末路をたどるのかと言えば、正信会(かつて僧侶)・創価学会・顕正会(かつて信徒)のように邪宗教と化します。

 今更ながら信心とは如何なる物か?総本山第六十七世日顯上人は「自分の勝手な考えを一切捨てて、仏の御意(みこころ)に付く、ということが法華経の信心」「我々は『信心、信心』と言うが、その信心とは何かといえば、ただ単に御本尊様は有り難いということ、もちろんそうだけれども、その御本尊は大聖人様の御当体(ごとうたい)である。我々は、その大聖人様のお心を深く拝して、一言(いちごん)一動作なりとも大聖人様のお心に適(かな)うように修行するところが信心」と信心とは自分勝手な考えを一切捨てて、御本尊様・大聖人様の御意(みこころ)に付くこと。また大聖人様の説かれる御教えに叶う修行を行うこと。であると教えられています。

 大聖人様は火の信心と水の信心があると御指南されています。

 日顯上人は「火のごとく信心する人は、一時期は燃え立つばかりに信心しても、少し時間が経つと遠ざかってしまうがゆえに、良くない。それに対して水の信心ということは、不退転の状態であり、常に信心を継続するということであるから良い」と仰せです。しかし日顯上人は「火の信心という意味の信心も大切である、と思います。つまり、水は相対的に静かでありますが、火はボーボーと燃えますから、命が躍動(やくどう)しておるということがいえるわけでありまして、善を勧(すす)める場合、あるいは愚(ぐ)を正していく場合、火のような心を持つことも大切である」とも仰せです。

 御歴代御法主上人猊下の縷々の御指南を拝し、我々は正しい信心を第一とし、修行と学問に励行していくことで正しく大聖人様の弟子・信徒としての仏道修行を励行することができ、御仏智を得ることが叶います。御妙判では「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」と、化他行にも努めるよう仰せでありますから、精一杯化他行にも努めることで、本当に大聖人様の仏道修行ができ、真の御仏智を得ることができることを忘れず、精一杯、自行化他の信心に励行していきましょう。

以上