7/19 「今こそ」 三浦 遙牧師 聖句:2コリ6:1-10
パウロも初期のキリスト者も、決して穏やかな環境にいたわけではありません。信じることがそのまま迫害を招く時代でした。パウロは本日の箇所で「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」と並べます(4-5節)。同じ手紙の11章では、鞭を受けたのが五度、石を投げつけられ、難船したことも三度と、その苦難を具体的に書き記しています。ではなぜ、パウロたちは諦めなかったのでしょうか。
福音書には、病を患い、そのことで「罪人」と蔑まれた人々が登場します。イエスはそのような人に「神の業がこの人に現れるためである」と語り、癒されました。この言葉に「では、その人は神に利用されたのか」「かわいそうだ」と疑問を抱く方もおられます。
けれども、当の本人にとってはどうだったでしょうか。生まれてからずっと、自分の苦しみは自分や先祖の罪のせいだと言われ続け、卑しい存在として自分を見つめるほかなかった。その人が、イエスに「あなたのその苦しみは、罪のためではない」と言われる。それは、自分の存在をまるごと肯定される経験だったのではないでしょうか。「かわいそう」という評価は、自分の存在を根底から揺るがされたことのない側から出てくる言葉なのかもしれません。
パウロが歩みを止めなかったのは、使命感や義務感からではなく、その目にいつも「傷ついている人」が見えていたからでしょう。社会に傷つけられ、自分で自分を傷つけている人が、世界のいたるところにいた。だからパウロは言うのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2節)。いつかではなく、傷ついた人が目の前にいる「今」こそが、神の恵みの働く時なのだと。
その歩みは、傍から見れば割に合わないかもしれません。それでもわたしたちが願うのは、自己を否定され、存在を揺るがされている人に「あなたが必要です。あなたこそ大切です」と伝えること。何もできなくても、声をかけ、そばにいることならできるはずです。世の目には悲しんでいるように見えて、実は常に喜び、無一物のようで、すべてを与えられている。その違いを伝えながら、共に歩んでまいりましょう。