偉人『ハリー・ベラフォンテ』
甲子園への切符を手にした沖縄商学と健闘虚しく敗れたエナジックスポーツ高等学院の試合結果をニュースで見ている時、ふと頭に思い浮かんだのがDIAMANTESによる野茂英雄のテーマ『 HIDE~O』である。日本人のメジャーリーガー誕生の先駆けと、野茂英雄の応援歌「ヒ・デーオ ヒ・デーーオ 野茂が投げれば大丈夫、ワン・アウト、トゥー・アウト、スリー・アウト、チェンジ 野茂が投げれば大丈夫」のメロディと歌詞が頭から離れない。実はこの曲は1957年2月にビルボード5位にランクされたヒット曲ハリー・ベラフォンテの『バナナ・ボード』である。一度聴いたら忘れられないほどの陽気な歌であるが、実はその内容はブラックである。
一晩中、バナナを船に積み込む過酷な重労働を強いられている歌なのだ。その歌を歌っていたのが、アメリカの歌手・俳優・公民権運動家のハリー・ベラフォンテである。歌手としての成功だけでなく、「人々のために人生を使った人物」として世界中で高く評価されている。しかし彼の出自からも分かるように、幼い頃から人種差別を受けてきた。だから反骨精神があって公民権運動家として活動したと容易に想像することもできるが、実は同じ境遇の人が皆人のために活動する志を持つものではない。なぜハリー・ベラフォンテはそのような活動ができたのか彼の『苦しみの意味づけ』から解き明かしてみよう。
ハリー・ベラフォンテは1927年3月1日、アフリカ系アメリカ人の中心地のニューヨーク・ハーレムで誕生。父ハロルド・ジョージ・ベラフォンテはマルティニーク系の船員で、母のメルヴィン・ラヴはジャマイカ出身で家政婦として働いていた。しかし家庭は経済的に豊かではなく、両親の関係も安定せず8歳頃から数年間、母方の祖母の住むジャマイカで彼は暮らした。ジャマイカでの生活は自然豊かな環境の中で生活する一方、植民地社会の厳しい現実も目にし、貧しい農民が苦しい生活を送り、肌の色によって社会的な扱いが異なることを幼いながらに理解するようになった。この経験についてベラフォンテは後に「貧しい人々の尊厳と苦しみを知ったことが、その後の人生を決定づけた」と語っている。10代になる前にニューヨークへ戻ったが、生活は依然として厳しいものだった。
学校では読字障害(ディスレクシア)と考えられる症状があり、当時は十分な支援もなく能力が低いと誤解されることもあり、勉強についていくことができず、そのため学校生活になじめずに中退している。ハーレムでもジャマイカ同様、黒人に対する差別や貧困が日常の一部で十分な教育や仕事の機会を得られない現実を感じながら育ち、「社会の不公平を変えたい」という意識が芽生えていったという。このような経験が積み重なり、歌手として成功した後も単にエンターテイナーとして活動するのではなく、公民権運動や反貧困運動に積極的取り組んだ。彼は後年「私の人生は音楽ではなく、正義を求めることから始まった」といった趣旨の発言をしている。つまり彼が公民権運動に深く身を投じた理由は、一つではなく、自身の生い立ち、差別の実体験、そして社会の不公平を変えたいと嘆い、歌手となってからは更に芸術は社会を変えるためにあるという信念が生まれ、それらの経験が重なったからである。
しかし彼にとっての戦いは売れっ子歌手になってからも続いた。1950年代のアメリカでは黒人芸術家が活躍できる場は限られ、ヒット曲を持つ彼すら「黒人だから」という理由で仕事を断られたり、政治的な発言を控えるよう求められたりすることもあったようだ。しかし彼はそのような圧力に屈せず公民権運動への支援を続けたのである。
ここで注目すべきことは彼が直面した困難・苦難を、彼自身がどのように意味づけをし理解したかである。これが人生を悲観せず、問題に自分自身が飲み込まれることなく、自分自身の道を歩んでいく人とそうでない人の分かれ道であると私は考える。
ではその違いというものはどのようなものであろうか。
人生には思いもよらないことが自分自身の身に降りかかるものである。現在、地球の人口は83億人と言われているが、少なからず似たような立場や境遇、環境に置かれている人はいるだろう。しかし同じ出来事を経験した人であっても、捉え方が変わると大きく人生を左右するものとなる。例えば、子供の頃にいじめを受けた人がいたとする。Aさんは「人は信用できない。先に傷つけられる前に、自分守らなければそして強くならなければ」と考える。一方Bさんは「こんな思いをする人を一人でも減らしたい」と考える。Cさんは「人に傷つけられる前に、相手を傷つけて自分に害を加えられないようにする」と目を覆いたくなる行動に出る人もいるのも現実だ。三人とも同じような苦しみを経験しているが、その後の心も持ち方考え方に影響し、人生は大きく変わるのは間違いない。ここで重要なのはどちらも最初からそう考えたわけではないということである。それぞれがそれぞれに「意味づけ」をしているのである。そしてその意味づけは、その人の経験、人との出会い、文化や価値観宗教など様々なことにに影響され形作られていく。
心理学上、意味づけが大きく変化するにはいくつかの理由があるようだ。例えば誰かの言葉、尊敬する人物との出会い、本や音楽、宗教、哲学、自分自身の深い振り返り、他者を助けた経験などから影響を受けると考えられている。
ハリー・ベラフォンテならどのような影響が大きいのかと考えてみよう。彼の場合「差別を受けた」という事実だけではなく、公民権運動の仲間やキング牧師との出会いを通じて、「苦しみは憎しみを生むためではなく、不正を変えるための力にできる」という意味づけを理解しその想いや意志を育てていったといえるだろう。最初は矛盾や世の中の歪みに対して怒りを抱えていたであろうが、彼は少しづつ前に進み自分自身ができることは何かと意味づけを明確にしていった。最初から意味づけができる人はいない。
私の経験から話をすると、自分自身に困難なことが起きた場合に考えることは、なぜ自分自身にそのようなことが起きたのかと考えることではないだろうか。事実と向き合わざる終えないという状況である。どうしてこのようなことが起きたのかとある程度の内観を行った後には、「苦しみには自分自身が気づかなければならない意味がある」という考え方も必要かもしれない。そして時間の、その出来事を踏まえて、「自分なりの意味を見いだすことができる」という考え方にシフトすることである。
例えば、私の辛い経験をしたことの一つに大切な人を亡くしたことがある。この経験は決して「良い経験」ではない。しかしその後、「その苦しみや辛さに対してどう向き合うか」を考えた。年を重ねるごとに考え方は変化するものであるが、「命の大切さを子供達に伝えよう」「同じ境遇の人を支えよう」「食することが厳しい人に援助しよう」「学ぶことに困窮している人に手を差し伸べよう」「人生を全うしてあの世で再会することができたら、頑張って生きてきたよと報告できるように今を生きよう」と考え方は変化している。
これらは悲しみを肯定しているのではなく、自分自身が悲しみに飲み込まれず、その悲しみや辛さを自分自身の人生の一部として引き受けようと決意したことで、気持ちが救われ前を向いて歩けるようになった気がする。そしてその受け入れの鍛錬で少しずつだが前向きに日々過ごすことができ、心を路頭に迷わせずに済んだと確信している。苦しみや辛さは素晴らしいと言えるものではない。むしろ「苦しみは現実として存在する。しかし、その苦しみにどう向き合うかについて人にはある程度の自由が残されている」とも言える。ハリー・ベラフォンテの人生で考えるとすれば、彼は差別によって「世界は敵だ」という意味づけを選ぶこともできた。しかし実際には「自分が受けた苦しみは、他人を守る責任を教えてくれた」という方向に人生の舵を切っている。だから彼の「苦しみの意味づけ」とは、過去を書き換えることではなく、過去が未来にどのような影響を与えるかを考え行動をしたのだ。つまり「苦しみの意味づけ」とは自分なりに考えるか否かの自由、そして受け入れるか否かの自由、決めて行動するか否かの自由、全てが自分自身の手中にあるわけだ。それをゆっくりとでいい、今の自分自身の幸せとは何かということにフォーカスすることができれば、少しずつ心と体の解放できていくものだと私は実感している。
ハリー・ベラフォンテは音楽家として深みのある温かい歌声と、人間味あふれる表現で多くの人を魅了した。また音楽活動と同じくらい、社会活動に力を注ぎ、公民権運動を資金面・精神面の両方で支え、長年にわたりUNICEF親善大使を務め、飢餓や貧困に苦しむ子どもたちの支援に尽力もした。アフリカの飢餓救済のために1985年のチャリティーソング「We Are the World」の企画を提案した中心人物の一人で、この曲は数千万ドル規模の支援金を集めた。人種差別や貧困、戦争などの問題に対しても生涯を通じて声を上げ続けた。自分の名声を困っている人々のために使った人物として語られ、音楽を「自分の成功のため」だけでなく、「社会をより良くするための手段」と考えていた。
「慈愛」という言葉で彼を表現するなら、ハリー・ベラフォンテは人への思いやりを行動で示し続けた歌手だったと言えるであろう。しかし一方で、彼は穏やかなだけの人物ではない。不正だ不公平だと考えたことには強く抗議し、政治的な発言も積極的に行った。そのため、賛否が分かれる場面もあるがそれでも彼は「困っている人のために時間や影響力を惜しまなかった」という点では大変人間味のある人物だったように思う。人間はその時々で感情に波があることは当たり前のことである。その波を大きくうねるのも、さざなみにするのもその人の自由選択である。