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田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

説教20260719出エジプト記3章13-22

2026.07.20 11:25

「神、その名は 在って在る者」

 聖書(13-22節)

 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

 これこそ、とこしえにわたしの名

 これこそ、世々にわたしの呼び名。

 さあ、行って、イスラエルの長老たちを集め、言うがよい。『あなたたちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主がわたしに現れて、こう言われた。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した』と。彼らはあなたの言葉に従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。』しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。

 そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい。」

説教

 旧約聖書の神の「名」には深い意味が込められている。その名はこの出エジプト記3章13節以下で、はじめて「神自身」によって表される。このこと自体がこの「名」を持つ神の本質的な特徴といえよう。なぜならこの神の名は人々から付けられた「呼び名、呼称」ではなく、「神自身」がみずから名乗り表した「名」だからだ。ペリシテ民族の神ダゴンは「穀物」の意味であり、バアルはカナン地帯の様々の神の主神で「所有者」と呼ばれた。律法で禁じられた人身御供(ひとみごくう)を神事とするモレク神は「恥」という意味もこめられたという。他の異境の神々がその民の側から名前をつけられるのとは異なり、イスラエルの神は「自分から」その「名」を告げたのである。

 だが、神みずからが名を表明するこの時、苦しむヘブライ民族の救出を託されたモーセは深く戸惑って煮え切らない態度で、頑なまでに神に逆らって問い返すのだった。自分はそんな力のない者である、どうしてそんな大仕事ができようか。それに対し神はモーセにしるしとして「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」という言葉を送り彼を力づけた。しかしなおもモーセは神に問い返すのだった。行きましょう。なるほど行って同胞たちに「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と伝えますけど、もし神よ、あなたのことを訊かれたらどう答えたらよいでしょう。彼らは「『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。こう問うモーセに向かって神はその「名」を明らかにする。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 これは以前「わたしは有って有る者」と翻訳されていたところで英語で言えば“I am what I am”となるそうだ。ただ旧約の原語にはI(わたし)は無いという。だから今の訳では「わたしはある」とだけが訳されているけれど、実際には「わたし」は抜いて「在る」というのが神の名の答だという。神の名は「在る」。「在る」はヘブライ語で「ハーヤー」で、そこから「ヤーウェ」となったという。ただここで少し疑問が湧かないだろうか。何故「在る」が日本語訳で「主」と訳されているかである。じつは日本語訳ばかりでなく英語ではロード、フランス語ではセニョール、ドイツ語ではヘル、とどれもほぼ上位の権威者とか実力者などの「主人」を表す言葉で、どうして「ヤーウェ」(在る)がそうなったかと疑問に思う。その背景を言えば、これは「ヤーウェ」(在る)が十戒の第3項「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」を忖度しての結果だという。ヘブライ語には他に神を表わす「アドナイ」(主人)という言葉があり、日常的には十戒第3項の禁止事項からヘブライ語聖書がギリシア語に訳されて世界に広まる時に「ヤーウェ」(在る)が「アドナイ」(主人)に置き換えられてしまったことによる。ヤーウェのかつての名称であった「エホヴァ」はヤーウェの子音にアドナイの母音を当てはめた造語という。だからエホヴァに籠められた意味は主人である。こうした次第で「在る神」が「主なる神」とされたのだった。

 しかし元来、この出エジプト3章で神が告げる神自身の名は「在る」である。それにしても奇妙な名前と思わないか。一体「何もので在るんだ、どう在るんだ」と問いたくなる。神が具象的に何々であり、斯く斯くだと教えてもらえばよく分かるのにと思う。しかし哲学などでよく言われる「絶対者」、「永遠者」、「普遍者」あるいは「真理」とかいろいろ当てはめてもどうも神の概念がずれる。また、いっそ日本に「鰯の頭も信心から」という信心深い諺がある。まさに逆を張った神定義だ。「神なんて何でもよい。肝心なのは人の信心だ」という主格転倒の荒業だ。何でも神になる。御嵩、神木、トイレの神様、信じれば。ということで異境の神々と同様に収穫の神、子孫繁栄の神、七福神、八百万(やおよろず)の神々は行きつくところ人間自身と言える。

 西洋中世のトマス・アクィナスは「神は存在そのもの」(純粋存在)と考えたがそれはこの出エジプト記3章の神の名「在る」からきている。トマスは言う、神(主語)は「何々である」という具体的な「個々」(述語)にはならない。しかし神は存在する。「在る」としてのみ。ただこの中世人はどうしても「知る」ことに関心が行ってしまうようだ。そんな「何々では在らず」ただ「在る」神の実体は人間の考え(理性)では「予感」までは行くのだがそこで終了。とても人間には理解できない。しかし神の恩寵の啓示の光(信仰)を受けるなら神が何であるか完全に認識できるとトマスは言う。とはいえなんとも透明なガラス細工のようにキラキラ輝く神認識だが全然汗ばんでこない。迫ってこない。神が「わたしは在る」と名乗るのに。「わたしはいる(在る)」と告白するのに。

 神の名「わたしは在る」はメッセージである。それは神の自己告白である。だからヨハネは「神は愛である」と言った。「愛」。これこそ神の真の「述語」である。

 「わたしは在る」と神が言う時、神は「迫り来る」のだ。モーセに迫り、民に迫り、わたしたちに近づく。それは一切のものに来たり、神ならぬものを神と共にあるものへと実現する。失われたものを取り戻し、死せるものを復活せしめ、萎えたものを立ち上がらせる「存在」。それはすなわち「全能」のことだ。神の全能とは「力」のことではない。それは神があらゆる神ならぬものと共にあろうとされる「存在」のことだ。すべてに向かう神の「在る」神は神の全能であり、「神の愛」だ。「使徒信条」の最初は言う、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と。神の全能とはすべてのものと共にある「神の存在」のことにほかならない。それは何でも出来る可能性のことではなく、すべてを愛のうちに実現することだ。モーセに託して神は民に自分の名である「わたしは在る」を伝えよと命じる。

 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。

 これこそ、とこしえにわたしの名

 これこそ、世々にわたしの呼び名。」

 「神は在る」。それは「迫る」さらに「圧倒する」と言いかえてよいだろう。「神は主として共に在り、それをせずにはいないだろう」ということだ。この名の告白後に神は自分の思いを熱く告白する。それは神の存在が「主」として「激しく燃え、高まり、実現へと向かって圧倒する全能の力から来る神の決意の表明にほかならない。

 「わたしはあなたたちを顧み、あなたたちがエジプトで受けてきた仕打ちをつぶさに見た。あなたたちを苦しみのエジプトから、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した」。

 三つの言葉が輝く。神は「顧み」、「つぶさに見た」そして「決心した」と告白する。その溢れ出る内なるみ心の思いをいささかも隠そうとはしない。自身の「在る」によってすべてを「在らしめる」。神の告白は民の救いへの途切れることもない止むこともない全存在をかけての主のみわざを民に向かって負おうとするの決意を表している。