チームラボ京都へ|世界は動いても、身体は「私はここにいる」と知っている。
先日、京都にある「teamLab Biovortex Kyoto」を訪ねた。
これまでにも何度もチームラボの作品は体験しているけれど、ついに京都まで足を伸ばしてしまった。会場に入ると、いつものように「猪子さんは、一体何を考えてこれをつくったんだろう」という問いから思考が走り出す。
光、球体、泡、水。
どれも、じっと止まってはいない。
絶えず動き、形を変え、そこに人が介入することで、さらにその姿を変化させていく。
たとえば、大量の球体が押し合いながら一つの巨大な存在をつくっている部屋。
人がその中を押し分けて通ると、全体の形が崩れる。けれど通り過ぎれば、またゆっくりと元の形を取り戻していく。
別の部屋には、石鹸と水と空気でつくられた巨大な泡の彫刻があった。
こちらも固定された形を持たない。人が触れれば弾け、空気の流れで刻々と形を変える。それでもそこには、確実に「一つの存在」があり続けていた。
チームラボでは、こうした作品を「Higher-Order Sculpture(高次元の彫刻)」と呼ぶらしい。
佇みながら、考えた。
——存在とは、一体なんだろう。
渦をつくる水は、一瞬一瞬入れ替わっている。
人間の身体も同じだ。食べ、呼吸し、排出し、細胞は絶えず入れ替わる。
昨日と今日では、身体も、感情も、考えていることも少しずつ違う。
それでも私たちは、ずっと「私」としてここに存在している。
固定された物質や形だけが、存在を形作っているわけではないのだ。
崩れることは、「壊れる」ことではない
崩れることは、その作品にとって「破壊」ではなかった。
崩れて姿を変え続けることこそが、その作品が生きている証なのだと思う。
私自身、あまり自分という存在を固定していない。
一週間前はこう思っていたけれど、今日は急に違う感覚がしっくりくる。「あ、前と感覚が変わったな」とただ気づくだけだ。
これは、クライアントと向き合うときも全く同じだ。
「前はこう言っていたのに」ということは、あまり気にしない。
その瞬間、その人はそう感じて言葉にした。そして別の日、違うことを言う。
そこで「あなたはこういう人だ」とラベルを貼って決めつけてしまえば、相手はそこから動けなくなってしまう。固定された硬い壺の形に、自分の身体を無理やり合わせにいくようになるから。
だから私は、決めつけない。
鴨長明の「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉も、エーリッヒ・フロムが対比したHavingとBeingも、すべてここにつながっている。
存在とは、何かを固定して「持つ(Having)」ことではなく、変化しながら「在り続ける(Being)」ことなのだ。
そして作品を見つめながら、もう一つ気づいたことがある。
その場に居合わせた鑑賞者もまた、作品の一部をつくっているということだ。
人が歩けば球体が揺れる。人が触れれば泡が揺らぐ。
その日の人数も、人の動きも、空間の空気感も二度と同じものはない。
つまり、私がその瞬間に見ていた景色は、もう二度と出会えない「一期一会」の作品なのだ。
チームラボは、驚くほど「余白」のある現代アートだと思う。
作家が100%完成させて渡すのではなく、「未完成の余白」を私たちに差し出している。
人が入り、触れ、存在する瞬間、はじめてその作品が立ち現れる。
余白とは、何もない場所ではない。
「まだ何かが起きられる場所」のことだ。
身体は、考えるより先に知っている
館内には、子どもたちが夢中になって遊ぶアスレチックエリアもあった。
板の上を渡っていくアトラクションで、前に並んでいた子が「もう7回目!」と嬉しそうに話している。
実は私も、子どものように夢中になっていた。
きっかけは、館内で借りたベアフットシューズ(薄底の靴)だったかもしれない。
サンダルで訪れたためレンタルしたのだが、これが抜群に心地よかった。
ソールが極限まで薄く、足裏が床や板の傾き、質感をダイレクトに拾い上げていく。
私は普段からヨガをしている。
裸足で立ち、足裏の感覚を澄ませ、重心を感じる。目を閉じても片足で立ち続けられる。
つまり、視覚だけを頼りに自分の位置を探っているわけではないのだ。
足裏、筋肉、関節、内耳の感覚。
身体のあらゆるセンサーから入ってくる情報によって、「私は今、ここにいる」ということを、身体はすでに知っている。
だからグラグラ揺れる板の上でも、身体が勝手に重心を微調整してくれる。
思考が介在する隙もなく、身体は答えを知っているのだ。
世界が回っても、身体は「現在地」を忘れない
今回、自分でも驚くような面白い発見があった。
壁一面にグラフィックが投影され、空間全体がぐるぐると激しく回転する部屋でのことだ。
普段なら一発で「映像酔い」してしまうような空間。
けれどふと、こんな考えが浮かんだ。
「動いているのは映像であって、私じゃない」
視覚の情報に飲み込まれるのをやめ、足がしっかりと床についた感覚、まっすぐ立っている自分の軸、身体の「現在地」に意識をぐっと繋ぎ止めてみた。
すると——まったく酔わなかったのだ。
空間は相変わらず猛烈な勢いで回転している。
けれど、私はここに揺るぎなく立っている。
「世界が動いている」という膨大な視覚情報を受け取りながらも、身体の「いま、ここにある」という知覚に意識を置き直すことで、渦の中でも平然と立ち続けることができた。
Create Space. Let Life Surprise You.
振り返ってみると、あの空間ではずっと何かが形を変え続けていた。
泡が動き、球体が動き、光が動き、映像が動く。
そしてその変化に応じて、私たちの身体もまた微細に反応し、動き続ける。
作品と人間のあいだを、エネルギーが絶えず循環している。
だから「鑑賞する」という言葉では、どこか足りない。
そこにいる自分自身もまた、その瞬間の作品の一部になっているからだ。
そしてこれは、私が探求している「余白」の概念と深く響き合っている。
すべてを決め切らない。完成させ切らない。
手放し、何かが入ってこられるスペースを残しておく。
するとそこへ人が入り、偶然が入り、その日の風が入り、思いもよらない美しいドラマが生まれる。
Create Space. Let Life Surprise You.
(余白をつくると、人生がそこへ入ってくる)
チームラボの空間を歩きながら、私はその真理を「身体」で教えてもらった気がする。
世界は絶えず形を変えていく。
出会う人も、置かれる環境も、そして自分自身も。
だからこそ、その刹那にしか現れない美しさがある。
そして、世界がどれほど激しく動き出そうとも。
私たちの身体はいつだって、静かにこう教えてくれている。
「私は今、ここにいる」と。