6月28日 主日礼拝
6月28日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
宗教はオワコンなのか?
人類至上主義
神を必要としない世界。
理性至上主義の末に人が生み出したものAI。
欲しかったものはこれなのに、これに自らの存在が脅かされている。
本当は私たちは何がしたかったのか?
なにを考えていればよかったのか?
この時代への問いかけに、
宗教はけっこう素材がありますよ
という思いを持っての礼拝のお話し
使徒言行録25章1−12節
ユダヤ人はなぜパウロを憎むのか。
律法を大切にするユダヤ人。
律法、秩序、これをなぜ重んじるのか。
組織、共同体を守るため。
ユダヤ人たち、彼らは共同体主義のもの。
一方のパウロ
自分の信じるもの、主体を大事にする。
「私」「主体」「個」
それぞれの在り方が許される環境。
自由な環境。
それ故、自由主義とも呼ばれる。
ただ共同体主義のユダヤ人たち。
彼らはパウロに下される無罪の決定、これを許さない。
共同体を維持する根幹の「法」を彼らは守ろうとしない。
ユダヤ人が守ろうとしているものは本当は何なのか。
パウロ、イエス、この者たちは自由主義なのか。
人は安息日のためにあるのではない。
安息日が人のためにある。
既存の律法を無視するかのような自由主義的発言。
ただ、イエスが見ていたものは、自分の主張ではない。
神を見ていた。
神の御心は何か。
それを常に捉えようとしていた。
共同体を大切にしているかのようなユダヤ人。
彼らは法を守らない。
彼らの中にあるのか結局は前例や、誰かの言葉。
自分で吟味したことのないただ反復されるだけのもの。
ファジーな全体主義。
イエス、パウロ、彼らは吟味する。
問う、神の御心がなんであるのか、徹底的に問う
共同体主義と自由主義の衝突。
20世紀に顕著になったもの。
どちらも原因は同じ。
理性の台頭、人が世界の中心になった。
すなはち神が不在になった。
神へと常に思いを馳せる。
中心は私ではない。権力のあるあの人でもない。
神を中心に据える。
そこには常にあのイエスの最初の言葉がつながってくる。
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
自分を疑う、自分を真ん中にしない、悔い改め。
それは人がぶつかり合うだけの現実と称される世界を別のところへと押し上げる。
神の国
自由か、共同体か。
それがぶつかり合う地平から
その先へと私たちをいざなっていく。