7月5日 主日礼拝
7月5日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 25章13~27節
聖書の世界は自由主義か共同体主義か。
イエス、パウロ、どちらも「裁判」を経験する。
裁判を通して生まれた教会。
裁判を通して教会はどのような爪痕を残したのか。
閉鎖された世界での独り言ではない、公の場での言葉が求められる裁判。
パウロはユダヤの裁判からローマ帝国の裁判へと進んで行った。
より多くのものへ、より広い世界で教会の言葉は注目をされた。
教会が裁判を通して世界に残した爪痕、宣伝効果。
もう一つの爪痕。
イエスの裁判も、パウの裁判も裁判長・帝国の総督が無罪の判決を出してもそれが実行されない。
イエス、パウロ、彼らは主体の言葉、考えを大切にする。
自由主義の者とも考えられる。
だが、彼らは裁判へと赴く。
パウロの至っては自ら進んで裁判の場を求めている。
秩序、法を重んじている。
共同体を大切にしている。
共同体主義でもある。
律法が大事だ、秩序、民族性が大切だと言っているユダヤ人たち。
この者たちは共同体主義の者のような発言をする。
だが、採決には従わない。
共同体の柱である裁判を彼らは拒絶する。
イエス、パウロに代表される教会は共同体を軽んじる者ではない。
そして、彼らは共同体に大きな課題があることも突きつけた。
裁判が成立しないものがある。
共同体が壊れる時がある。
神の言葉。
これは共同体・人の製作物では追いつけない。
人は誰しも神からの使命・賜物を持っている。
個性、性質、傾向。
それが本当に神からのものであれば、時に共同体に収まらない。
共同体を壊すものとも非難される。
イエス、パウロも同じ。
秩序を壊すものと拒絶された。
だが、その結果、次の秩序、新しい共同体を生み出して行った。
自由と共同体。
これを連続させてきたのが教会の歴史。
そこにはいつでも神という高い次元への意識があった。
自由と共同体が二者択一になる現実があるのなら、そこには「神」はいない。
心を高くあげる。
この地平での衝突が些細なことに見えてくる。