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「宇田川源流」【日本報道検証】 自由と勝手がわからない日本人の「自由な働き方」否定

2026.07.27 21:07

「宇田川源流」【日本報道検証】 自由と勝手がわからない日本人の「自由な働き方」否定


 毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたます

 さて今回は『自由と勝手がわからない日本人の「自由な働き方」否定』と題して、現在の人々の働き方について見てみましょう。

私が普段から思っていることなのですが、昭和の時代とれいわになってからとは何が異なるのでしょうか。昭和の時代は、とくに戦後直後は、あんなに何もなく日本国全体が焦土にまみれていたにもかかわらず、なぜあんなに日本の人々は生き生きとしていたのでしょうか。そして、日本はなぜ経済反転ができていたのでしょうか。逆に平成・令和と、戦後に比べたら確実に豊かなのに、なぜ経済発展ができていないのでしょうか。

この違いに関しては様々なことがあると思います。なによりも大きなものは時代が違うということ、またせかいを、そして日本の周辺における経済環境、または科学技術あ、その為に必要な資源なども全く異なります。その辺の分析は、経済学者の多くが行ってくれていると思います。

私が言いたいのは、「日本人が変わってしまったのではないか」ということです。

 もっと言えば「義務や責任の感覚がなくなり、権利ばかり主張するようになってしまった」ということではないかと思います。もちろん、今の教育というのはその様になっており、基本的人権といえば、侵すべからざる権利であり、何もなくても守られるというようなことであるというような教え方をされておりますし、また、その基本的人権が、私の感覚でしかありませんが、年々「広がっている」という感じがします。その中で「働かなくてもよい権利」というのが、いつの間にか日本に蔓延してしまったのではないでしょうか。。働かなければ、日本の国家全体が発展することはないのです。

<参考記事>

「いっそ全員出社にしてください」 出社とテレワークの“不公平感”はなぜ生まれるのか

7/22(水) 10:10配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/c9840d18d510d21889dbb75db6cebe4d4c9bfd21

<以上参考記事>

 日本の職場で生じている「出社派」と「テレワーク派」の不公平感という問題は、日本人が抱く「自由」や「権利」に対する特有の意識や課題を端的に象徴していると言えます。

 本来、テレワークの導入や働き方の柔軟化は、個々人が自律的に時間や場所を選び、権利としてより豊かな生活や効率的な働き方を実現するための「自由」の拡大であったはずです。しかし、実際の職場においては、その自由が新たな対立や「不公平感」を生む原因となっています。

 こうした不公平感が発生する根本には、自由を行使することに伴う責任や自律の難しさ、そして他者の自由を素直に認められない周囲の意識があります。テレワークを行う側が「権利」や「自由」ばかりを主張し、現場に残された同僚への配慮や適切な業務分担という自律的な工夫(=勝手気ままな行動との区別)を怠ってしまうと、出社せざるを得ない側から見れば、それは単なる「自分勝手」や「手抜き」に映ってしまいます。

 一方で、出社する側もまた、本来なら個々の事情や職種に応じた「自由な働き方の権利」を互いに尊重し合うべきところを、「自分たちが苦労しているのだから、あいつらも同じように苦労すべきだ」という同調圧力に囚われてしまいます。その結果、「いっそ全員出社にしてください」という極端な一律平等を求めてしまうのです。これは、自他の自由を認め合い調和させる知恵や柔軟性が不足している証左であり、「自由」を与えられてもそれを成熟した形で運用できず、結局は「全員一律の不自由」へと逃避してしまう日本社会の構造的な弱さをあらわにしています。

 つまり、自由や権利という概念を言葉では口にしながらも、実際には「自分勝手な振る舞い」と「責任ある自律的な自由」の線引きがうまくできず、他者の自由に対して不寛容になってしまうことで、自ら自由を手放し、従来の不自由で画一的な管理体制へ戻ろうとしてしまう現象が起きているのだと読み解くことができます。

 「自由と勝手の曖昧さ」から一歩深掘りすると、ご指摘のような「権利と義務の不均衡」や「基盤づくり(下積み)の軽視」が、組織や経済全体の停滞を招いているという側面は強く存在します。

 権利を主張すること自体は決して悪いことではありません。しかし、それが「プロとしての責任の遂行や基礎力の構築」という前提を欠いた一方的な要求に傾斜したとき、組織の基礎体力が削がれていきます。たとえば、仕事の全体像を把握したり確かな技能を身につけたりするための泥臭いタスクや、チームを陰で支える雑務(「誰もやりたがらないが不可欠な仕事」)を遠ざけ、目立つ成果や自己の権利ばかりを優先してしまうと、現場における知識や技術の継承が途絶えてしまいます。

 かつての日本の組織力や生産性の高さは、一見愚直に見える下積みを通じて業務の細部を体得し、個々人が責任感を持って現場の課題を泥臭く改善していくボトムアップの姿勢に支えられていました。しかし、義務や責任の裏付けがないまま「権利」や「効率性」だけがひとり歩きすると、短期的・表層的な要領の良さばかりが持てはやされ、長期的で骨太なスキルを持つ人材やイノベーションが育ちにくくなります。

 これが経済全体に広がると、「リスクや苦労は負いたくないが、権利とリターンは保証してほしい」という省力化の心理が定着してしまいます。失敗の責任を取る覚悟を持って課題に挑む挑戦精神(アントレプレナーシップ)が衰退し、どの組織も既存の構造を守ることに終始するようになります。結果として、個人の市場価値も上がらず、国全体の労働生産性や構造改革のスピードも停滞するという悪循環に陥るのです。

 本来、権利とは「果たすべき責任と自律」があって初めて価値を持ち、個人を真に自由にさせるものです。そこを曖昧にしたまま権利だけが拡大していく現状は、まさに日本経済が抱える「成熟した自律なき停滞」という課題を象徴していると言えます。

 権利と責任の不均衡をただ正論で正そうとしても、感情的な反発や権利の抑圧という誤解を生むだけに終わりがちです。個人の自律的な成長と組織の発展を同時に達成するには、仕組み、評価、そして権限の持たせ方という観点から、組織のあり方を構造的に変革していく必要があります。

 まず重要となるのが、「職務定義の明確化」と「成果・責任のセット化」です。従来の日本型雇用では業務範囲や責任の境界線が曖昧だったため、権利の主張と責任の押し付け合いが発生しやすい構造にありました。これを回避するためには、各ポストで求められる成果と果たすべき責任を明確に言語化し、テレワークや柔軟な働き方といった権利を認める前提として、どのようなアウトプットや報告を果たすべきかというルールをあらかじめオープンに定義しておくことが求められます。

 次に、下積みや裏方業務を正当に価値化し、評価する仕組みの構築が必要です。嫌なことや地味な作業を避ける傾向が強まる背景には、チームを影で支える雑務や基礎づくりが評価されないという現実があります。顧客対応の記録や手順書の作成、同僚へのフォローといった組織の基盤を支える貢献を可視化し、多面評価などを通じて給与や昇進に反映させることで、地道な責任を果たす人間が報われる評価体系へとシフトしていくことが不可欠です。

 さらに、若手の段階から「小さな権限移譲」を行い、当事者意識を醸成することも欠かせません。責任感は、自ら意思決定し、その結果を引き受ける体験を通じて培われます。下積み期間であっても小規模なプロジェクトの決定権を与え、挑戦による失敗と不作為による放置を明確に区別して評価することで、保身に走らず責任を引き受ける姿勢を育てることができます。

 最後に、こうした運用の前提として、定期的な対話による透明性の確保が求められます。不公平感の多くは相互理解の不足から生じるため、一対一の対話を通じて、自分が現在どのような責任を果たし、どのような権利や働き方を求めているのかを定期的にすり合わせる必要があります。

 権利を力づくで制限して縛り付けるのではなく、自由や権利を得たいのであればどのような成果と行動で示すべきかという前提を共有し、責任を果たした者が正当に報われる仕組みへと転換していくことこそが、個人の自律と経済の成長を両立させる本質的な解となります。

 日本全体が良くならなければ、我々の生活はよくならない。その為には日本全体を抑止発展させる義務と責任が我々にはある。そう考えなければ、日本の将来は明るくならないのではないでしょうか。