中野区 08 (21/11/25) 旧野方村 江古田村 (2) 哲学堂公園
江古田村 哲学堂公園
今日は旧江古田村の場所に作られた哲学堂公園を訪れる。広大な公園で、のんびり散策するためだけでなく、哲学をテーマにその奥義や人間との関係を感じるテーマパークとなっているので、半日をかけて、じっくりと見ていく。
江古田村 哲学堂公園
哲学堂公園は、哲学者で東洋大学の創立者の井上円了が1899年 (明治32年) に土地購入し、1904年 (明治37年) に精神修養の場として創設され、以後、1918年(大正7年) 頃まで、施設を追加に建築、整備して完成している。園内の古建築物や施設は、哲学世界を視覚的に表現している。哲学堂公園は1903年 (明治36年) に専門学校令により東洋大学の前身である私立哲学館大学として認可された記念として建てられた四聖堂を建築した事に始まる。四聖堂には界の哲学者4人が祀られ哲学堂とも称されたことから、公園は哲学堂公園と命名されている。戦後、東京都に寄贈し、1975年 (昭和50年) に東京都から中野区に移管されている。
井上円了 (1858 ~ 1919) は1 858年 (安政5年) に越後長岡藩領の三島郡浦村の真宗大谷派慈光寺の長男として生まれた。1878年 (明治11年) に東本願寺の留学生として上京し、東京帝大哲学科在学中に哲学会を発足している。円了は当時の仏教に対して批判的な意見を持っていた。
- 厭世教の弊害: 死後の冥土やあの世の救済ばかりを説き、現実の社会や人間の生き方を導く役割を放棄している
- 僧侶の知的水準の低さと学問の怠慢: 西洋哲学やキリスト教の理論の流入に対して、その意味や影響を理解せず、それに対して、仏教の教理を合理的に説明できない
- 宗派間での争い: 我が宗派こそが正しいという狭い枠組みで宗派の利害関係で内輪揉めをしている
- 迷信や祈祷の容認: 庶民を惹きつけるために「因果関係の無視された迷信」や「加持祈祷」などの非合理的な要素をそのまま放置・利用している
この批判的な民間の立場から円了は仏教改革を提唱し、仏教を単なる古い宗教から、近代国家・日本を支える 「精神的支柱(国民道徳)」 へと脱皮させ、世界に通用する普遍的哲学として復活させるという目的で啓蒙活動を行っていた。
- 仏教思想を中心に国家の近代化を支える国民道徳の確立
- 仏教をベースとした世界に通用する普遍的哲学を発信
- 社会の発展に貢献する 「活動的・現実的な宗教」 への変革
- 迷信を排した理性的で科学的な信仰の普及
以上の啓蒙活動実践の中で、哲学館、その後、哲学館大学 (現在の東洋大学)を設立する。
1904年 (明治37年) に一般庶民のための精神修養と社会教育の場として哲学堂公園を創設。これは円了が当時感じ疑問を持っていたことに対しての実験だった。
- 日本には肉体の公園はあるが心の公園がない。心を静めて自分と向き合う 「心を養う場」
- 知識人だけでなく、一般庶民の精神修養の場として、講義形式ではなく自然の中で散策しながら哲学の世界を五感で体験し、東洋思想と西洋哲学を融合を認識して、道徳心や理性を養える
哲学堂公園は哲学を構成する根本的な要素の時空、物質、精神を園内に3つの主要地区 (時空岡、唯物園、唯心庭) に割り当てて、それを辿ることで修行を促す仕組みになっている。
円了は人間の心が、迷いから覚醒し、宇宙の究極の真理へとたどり着くまでのプロセスを体感する精神修養の為、哲学堂公園を巡る順序を哲学堂独案内で推奨しており、それによって身をもって感じ、体験できる様に番号をふって推奨している。これに従って散策していく。(番号は上の案内図と異なっている)
[1 ] 哲學關 (てつがくかん))、[2 ] 真理界 (しんりかい)
哲学堂公園の入口には門があり、ここから公園に入る。右の門柱には 「哲學關」、左には 「真理界」 とあり、この門が俗世界と哲学界との境となる。この門を入ると真理界の修行場となる。
[3] 鑽仰軒 (さんぎょうけん)
哲學關と真理界を入った内側の右方にはかつては鑽仰軒 (さんぎょうけん) があったが現在は消滅している。鑽仰は聖人や偉人の徳を仰ぎ尊ぶことで、この門を監守するものだった。
[4] 哲理門 (てつりもん)
哲学門から道を進んだ所に1909年 (明治42年) に建造された哲理門が置かれている。哲理門は哲学界への正門になる。ここから時空岡 (じくうこう)に入る。人生や世界の本質などに関する奥深い道理を意味する哲理を探究することになり、この探究が哲学になる。
哲学では、物質が根元とする世界観の唯物論と精神を根本とする唯心論の2つの考え方があるが、これらの考えの中で普通の道理では説明できない不思議 (理外の理) があり、円了はその不思議を知ろうとすることが哲学の始まりとしている。この地には天狗松と幽霊梅があったことに因み、門の両脇には、心の世界の不思議を表す幽霊と、物の世界の不思議を表す天狗の木像が置かれている。この事から哲理門は妖怪門とも呼ばれている。門には対聯が掲げられている。表には「物質精気凝為天狗」「心性妙用発為幽霊」 とあり、物質のエネルギーが集まると、物質世界の不思議な現象である天狗となり、人間の心の不思議な働きは、精神世界の不思議な現象である幽霊となって現れる。もう一つの対聯は 「棹論理舟溯物心之源」「鞭理想馬登絶対之峰」 論理という舟を漕いで、物質と心の源流へとさかのぼり、理想という馬に鞭をあてて、究極の真理(絶対)の頂へと登りつめようとの意味だそうだ。
哲理門の天狗と幽霊は3Dプリンターで作ったレプリカで、実物は
[5] 一元牆 (いちげんしょう)
時空岡 (じくうこう) への門はもう一つある。常識門 (じょうしきもん) で通常はこちらが見学コースになる。常識門へ向かう一直線道には垣根があり、一元牆 (いちげんしょう) と呼ばれている。世間の多元的な見解 (事々物々の差別のあること) と哲学の一元的な見解 (差別の根底に潜在する一大原理) とを区分する境を表している。
[6] 常識門 (じょうしきもん)
常識門 (じょうしきもん) は、修理工事中で見る事はできなかった。 12月に工事完了予定なので、再訪して見ようと思う。ここから日常 (常識) の世界から哲学の世界へ入る門になる。一元橋の右端にある門である。もう一つの門の哲理門の 「理外」 に対し 「普通」 を表している。執着を断ち切った清らかな境地と、澄み切った美しい自然の景色への称賛が標されており、門をくぐる者に対し、心の平穏な境地への到達を諭している。
[7] 髑髏庵(どくろあん)
常識門を入ると右側に隣接して建物が置かれている。(工事中で門からは入れず迂回) 建物は左右の棟と渡り廊下により構成されている。右側の棟が髑髏庵で、髑髏は精神上の死を表しており、髑髏庵内に安置された髑髏との対面により俗に汚された心を消滅し、精神界の俗世を離れる (精神上の死) 場所になる。
[8] 復活廊 (ふっかつろう)
髑髏庵で死んだ来観者の日常の精神は、復活廊を通ることで、再び蘇生し、哲学的な心眼を開き、精神界が俗欲を離れ霊的に化して鬼神窟へと導いていく。
[9] 鬼神室 (きしんくつ)、[10] 接神室 (せっしんしつ)、[11] 宣明閣 (れいめいかく)
髑髏庵から復活廊を通り鬼神窟の棟に入る。鬼神窟は世俗を離れた天地万物の霊魂 (鬼神) の世界で、人の耳目では接することのできない神と鬼が存在しており、復活廊で霊的な存在となった人が、霊魂と神霊の世界に入る。鬼神窟の一階は接神室 (写真中下) と呼ばれ、霊魂 (鬼神) の世界の天地の神霊に日常的に接しながら過ごす場所になる。鬼神窟の二階は霊明閣 (写真右下) と呼ばれ、特別な客を歓迎する迎賓の部屋になる。
髑髏庵/鬼神窟の庭には四聖堂の2代目宝珠 (写真左上) と宇宙館の2代目烏帽子瓦 (写真右上) が置かれている。現在は四聖堂には3代目宝珠になっている。また、井戸や玉砂利も見受けられた。
髑髏庵の先、林の中に四阿 (東屋) が建てられている。
[13] 時空岡 (じくうこう)
通常ルートの常識門が閉鎖されているので、哲理門に戻りそこから入ると広場があり、その周りに幾つもの建物が置かれている。この場所が時空岡 (じくうこう) で、哲学における「時間」と「空間」を表し、宇宙そのものを表している。この時空岡に宇宙の真理があり、哲学で探究すると最終到達地点になる。最終到達地点だが、円了はこの時空岡の一部を、哲学堂公園の散策ルートの最初に見せる様に設計している。これはここを訪れる人に、目的地 (ゴール) の明示と修養への動機付けという高度な教育的オリエンテーションの意図がある。
[15] 四聖堂 (しせいどう)
時空岡広場の中に、哲学堂の中心にあたる四聖堂が哲学堂最初の建造物として 1904年 (明治37年) に建てられている。寺院で言えば本堂にあたる。四聖堂では四聖 (釈迦、孔子、ソクラテス、カント) が祀られている。円了の時代には西洋の近代思想が主流となっていたが、円了は 「西洋が上で東洋が下」 という当時の風潮を否定し、「西洋哲学の最高峰 (カント、ソクラテス) も、東洋思想の最高峰 (釈迦、孔子) も、人間としての究極の真理 (哲学) を追求した点ではまったく同じである」 と考えでこの四人を選んだという。
ただ、この四聖が本尊ではなく、四聖が探究した思想自体、哲学的理想と絶対無限、つまり宇宙の真理、絶対的真理を本尊としている。哲学はその基礎となる 「物 (物質)」 と 「心 (精神)」 の探究から始まるとしている。それを表現しているものが四聖堂内にある。(今日は内部公開日ではないので、内部写真は案内書から借用) 堂内中央に赤色透明の円形球灯を吊るし 「心」 を表し、その下には方形・黒色不透明な香炉を心を汚すものとして香炉を 「物 (MATTER)」 として置いている。香炉の煙で、球灯に曇りが生じるが磨けば本来の透明を持続することができるとし、心が物欲により汚されても、絶え間ない修養によりその清浄性を失うことはない事、哲学的思索のプロセスを表している。
客観的な真理の探求が同時に主観的な心の見つめ直しと重なり、自分の本来の良心を見出すことで、この世界で真理を見つめながら迷わず他者のために正しくポジティブに生きていけるようになることが円了にとっての哲学の目的であり、精神修養の目的でもあるとしている。
[15] 唱念塔 (しょうねんとう)
また、四聖堂内の中央には石塔が設置されている。前項では哲学的な本尊の概念を記したが、その他に向下的本尊 (向下的とは仏教で悟りの高みから俗世へ戻り人を救う事) として石塔を置き、仏教の南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経をもじった「南無絶対無限尊 (私は絶対無限に心から帰依します)」とマントラが刻まれている。宇宙の究極の真理 (絶対無限) が、すべての宗教や哲学が目指すものとし、このマントラを念唱することを推奨し、それにより、多くの悪い波は自然に静まり、心の中に安楽城を築くことができるとしている。
時空岡には哲学的探究の場が幾つか用意されている。
[12] 百科叢 (ひゃっかそう)、[14] 天狗松 (てんぐまつ)
先程通った鬼神窟の前から六賢台にかけては林や茂みになっている。百花とはあらゆる種類の花や植物で、宇宙に存在するすべての物質や生命を意味しており、その花などの物質はそれぞれが異なるが、すべて同じ大自然の法則の中で生きている。つまり、世界には様々な人種、宗教、学問、価値観があるが、その根底にあるのは一つの共通する真理 (南無絶対無限尊) と植物が生い茂る庭の姿を借りて視覚的に教えている。(万物一理) また、百花叢では植物は、冬になると枯れて死んだようになるが、春になれば再び美しい花を咲かせる事を人間の精神を重ね合わせ、人間の魂も、古い常識や物欲を一度捨て去れば、必ず新しくより高次の精神へと生まれ変わることができるという精神の再生も意味している。更に、人が生きている目に見える現実世界 (百花叢) は、生い茂る木々のように複雑で先が見えない。だからこそ、自分の心と向き合い、真理を探さなければならないとも教えている。
この松林の中にはかつては高くそびえる長松があり、当時は和田山や一本高し天狗松と呼ば れ、哲学堂の道標だった。この松を天狗とし、他の数百株の小松を木葉天狗と呼んでいたそうだ。現在では天狗松は枯れて消滅してしまったが、哲理門の天狗像として物の不思議の象徴となっている。
[16 ] 六賢臺 (ろっけんだい)
四聖堂の先にある朱色の三層六角の建物は六賢臺と呼ばれている。
内部公開日ではなく見れなかったが、内部には東洋の思想や学問の発展に大きく貢献した賢人を日本からは正徳太子と菅原道真、中国からは荘子と朱子、インドからは龍樹 (りゅうじゅ ナーガールジュナ) と迦毘羅 (かびら カピラ仙人) が奉崇されている。六賢の肖像は扁額として台上に掛けられ、その中間ある小鐘には各面の六賢の名称が鋳刻されている。この鐘をガンガンと三回続けて 「六ガン」 とし、六賢の一 人一人に告ぐと心得よとの体験の手順があるそうだ。六賢は日本人の身近な歴史の中にも素晴らしい修養を実践し、真理に近づいた先人たちがいるということを示す役割を持っている。この六賢は机上の学問にとどまらず、政治、教育、道徳など社会や実際の人生に実践した知行合一 (ちこうごういつ) を証明した人物で、修養の実践の大切さを示している。
次に、高台の時空岡から斜面を下り川沿いの続いている心と精神世界の唯心庭を散策し、人間の心の構造や精神の迷いと悟りを体感していく。
[18] 筆塚 (ふでづか)
六賢臺の場所から下に降りる道がある。少し下った所に筆塚が置かれている。円了は修身教育を推進する為に、1906年(明治39年) から14年間にわたり、全国を巡って5,503回もの講演を行ない、来場者は合計138万人に及んだそうだ。この際に得た講演料と揮毫した際の謝礼の半分を修身教会の活動資金や慈善団体への寄付に使い、残り半分は哲学堂の建設、拡張、維持に充てていた。ここにある筆塚は謝礼を出してくれた人達への感謝を込めて揮毫の記念、筆供養として設置されている。筆塚の台座に漢文でその円了の考えや思いが刻まれている。案内板には以下のように和文で訳が紹介されている。
余哲学堂を建設し人をして身心修養させしめんと欲し、筆を荷し諸州を遊歴し、もとめに応じ富を輝い、その謝報を積みこの資に充つ、大半既に成り、ここにおいて筆塚を築きもってその由を記していう
[19] 懷疑巷 (かいぎこう)
筆塚の道を進むと、道が分かれている。ここは唯物園と唯心庭への分岐点で懷疑巷と名付けられている。 先に四聖堂で体感した哲学の基礎の 「物」 と 「心」 への 分岐点を表している。哲学は心を本拠とする唯心論か、物を根基とする唯物論か、必ずこの二つの道の一つをとるようになる。この場所で、自分の常識を一度疑い、深く思索の迷路へ入っていくという心の構えが求められる。
[20] 經驗坂 (けいけんざか)
懐疑巷から下に行けば唯心園、そのまま道を進むと唯物園に達するのだが、唯物園への奨励ルートは懐疑巷先の坂を登り、続いて下坂を行くとなっている。この下り坂道は經驗坂と名付けられ、観察、実験、データを積み重ねていく「経験」という階段を何段も経て、哲学的理想と絶対無限の探究を行うという科学的なアプローチと探究のプロセスを体感させる目的がある。
[21] 感覺巒 (かんかくらん)
経験坂から唯物園までの途中に感覺巒と名付けられた地域がある。降りてきた經驗坂でいう 「経験」 は 人間に五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)という「感覚」により確かめて、本当 「経験」 となる事を教えている。
[22] 萬有林 (ばんゆうりん)
経験坂から唯物園までの途中の松林は 萬有林と呼ばれている。無数の木々が集まって一つの林を形成しているように、個々の物質 (万有) はバラバラに存在しているのではなく、すべてが相互に深く関わり合い、一つの大きな自然 (宇宙) を形作っている事を表している。
[23] 三祖苑 (さんそえん)、 [23] 三字壇 (さんじだん)、[24] 三組碑 (さんそひ)
感覺巒から萬有林を右手に見ながら道を進むと、哲学の元祖三人を祀る三祖苑があり、域内には三祖碑と三字壇が置かれている。三字壇は三基の腰掛で、大理石の長方形の平らな台を、漢数字の三を模して並べられている。三祖碑は哲学の元祖三人 中国の黄帝、インドの足目仙人 アクシャ・パーダ、西洋の多礼須 タレスの肖像に彫刻し、円了自身撰文により各小伝が漢文で刻記されている。
[26] 哲史蹊 (てっしけい)
三祖苑の横には、現在では消滅してしまったが、かつては哲学者の年表が刻まれた哲史塀が置かれていた。その場所には万有林と唯物園をつなぐ通路であったと思われる哲史蹊があったという。哲史蹊や哲史塀の詳細につ いては不明。
[27] 唯物園 (ゆいぶつえん)
懐疑巷に戻り、階段を川へ降りると、川沿い一帯が庭園になっている。唯物園で、哲学における物を根基とする唯物論を表している。この唯物園には唯物論を理解する為の工夫が凝らされている。
[28] 物字壇 (ぶつじだん)
唯物園の核心部に草で 「物」 という字が描かれた物字壇という植え込み地がある。世界の根底を物質とする唯物論の思想を表現したもの。日本庭園には池の形を 「心」 という漢字にかたどる心字池という手法に対比して、世界は心 (精神) だけでできているのではない。物 (物質) も同じくらい重要との円了の考えを反映している。地表に大文字で「物」という字が描かれた植え 込み地である。かつては文字辺の外周を玉石で縁取り、玉石のなかには薬草を植え、「物」 の字を形成していた。(写真下)
[29] 客観廬 (きゃっかんろ)
物字壇の傍に四阿 (東屋) があり、ここで休憩。客観廬という。哲学上の概念を耳目に感じる物的世界のことを 「客観」 と呼び、それを表現している。耳や目に触れる物質世界 (客観) そのものを体感し、ひと休みしながら思索にふける場所。
[30] 進化溝 (しんかこう)
唯物園の中には溝が造られ、水が流れている。進化溝と呼ばれ、物的世界の進化を表している。
[32] 博物堤(はくぶつてい)
進化していく流れを表した進化溝の丘側は火成岩など様々な岩石を埋め込んで造った土手になっており、博物堤と呼んでいる。哲学の唯物論を学ぶためには、まず目の前にある自然界を正しく観察・研究する必要があり、この土手を眺めながら、何かを見つける事を期待している。その考えからこの博物堤は、動物、植 物、鉱物、地質、古生物などの物的世界についての研究を表している。
[31] 理化潭 (りかたん)
進化溝の水は小さな池に流れ込んでいる。池は理化潭という。物的世界を研究する自然科学の世界を表したもの。
[38] 神秘洞 (しんぴどう)
進化溝の中程には石窟がある。進化溝の水源になる。石窟の暗黒な点は進化の幽玄神秘を示し、神秘洞と名付けられた。進化溝を流れを辿り進化の根元を探究していくと、この神秘の石窟に辿り着く。唯物論の研究は根源を究め尽くせ ばこの 「神秘」 に入ることとなる。
[40] 後天沼 (こうてんぬま)、[41] 原子橋 (げんしきょう)
進化溝は広場にある小さな池に繋がっている。この池を後天沼という。「後天」 とは哲学の用語で、人が様々な経験を積み、教育を重ねることで、知識や心が豊かに発展していく姿をいう。池の形状が扇に似ているので、扇状沼とも呼ばれていた。この後天沼 (扇状沼) に架かる橋を原子橋と呼び、万物の根源である原子が次第に集合し、物質を形成し、やがて世界や人類の豊かな文化を開発・発展していくプロセスを表している。この橋は扇の骨の部分に見立てて作られており、扇骨橋 (せんこつきょう) とも呼ばれていた。
[42] 自然井 (しぜんせい)
進化溝の上流にあたる所に湧水がある。自然井と名付けられ、天然泉から絶え間なく湧き出てくる水は、物質世界のあらゆる変化や進化の始まり、天地万物の進化の根源 (根底にある大自然のエネルギー) を表している。この湧水が、原始的な大自然の起源であり、そこから下流の進化溝に流れていくのは生物や世界の進化の道のりを象徴している。
ここで見て感じる事をまとめると次の様になるのだろう。
理化潭で物的世界を研究し、進化溝で物の進化を見て、それに沿った博物堤でその背景にある様々な要素を探究すると、後天沼と原子橋で様々なものが繋がる根元がある事に気づくが、その先を探究すると神秘洞に行き着き、科学でも解明できない神秘の世界に入ることになる。自然井の様に人間の科学では到底計り知れない、大自然の偉大で神秘的な力が絶え間なく湧いているという事を表している。
また、自然井には樋から流れ出る水を布袋が大きな袋で受け止めている。布袋尊の象徴である大きな袋は、何でも入れてしまう広い器、つまり度量の広さを表しており、人間の理屈で解明できない万物の根源を、ありのまま、大き受け入れる哲学的な度量と姿勢がを表している。
[39] 狸燈 (りとう)
唯物園の広場の中、後天沼の側には狸の置物がある。街中でよく見かける狸の置物とは少し異なっている。この狸は人生の真情を写した人生観を表している。人間はいつわり、おどし、高慢、へつらい、うそなどに熟練した存在とし、人間をだまして惑わす狸になぞらえている。狸をよく見ると腹の部分が灯籠になっている。これは、人間はだまし合うような腹黒い悪徳を持っているが、そんな人間の心の中にも、時として美しく輝くような素晴らしい精神(光輝ある霊性・良心)が必ず宿っていることを表しており、人間の悪の側面を認めつつも、なお善の可能性を肯定する円了人生観が表現されている。
ちなみに、かつての狸燈は、信楽焼の狸のように菅笠をかぶった姿だった。
[33] 数理江 (すうりこう)
唯物園沿いの川は妙正寺川で、学問の世界を貫くものとして位置付け、物的世界の研究の基礎にある数学と理科を象徴して数理江と名付けている。
[34] 観象梁 (かんしょうりょう)
数理江 (妙正寺川) に架かる橋は観象梁と呼ばれ、天文、気象などの自然観察を表している。形状から富士桟と呼ばれていた。以前は木造の橋だったが、1941年 (昭和16年) に妙正寺川の氾濫で流され、現在では鉄橋に架け替えられている。
[35] 望遠橋 (ぼうえんきょう)
数理江にはかつては、もう一つ橋が架かっていたが、妙正寺川の氾濫で流され、現在では消滅している。遠くの世界や未来を見通すという意味を込めて望遠橋と呼ばれていた。当初はかごをロープで引いて渡す橋で、昇天橋とも呼ばれていたが、危険という事望遠橋に架け替えられていた。この二つの橋を合わせて顕微橋とも呼んでいたそうだ。
[36] 星界洲 (せいかいす)、[37] 半月臺 (はんげつだい)
観象梁を渡った所も哲学堂公園の一部で、現在では消失してしまったが、星の世界に例えて星界洲と名付けられた空間だった。地球を超えた宇宙や天体の世界を五感で感じ観察して哲学的に思考する地域で半月臺があった。半月臺は天体を観察したり、宇宙の広がりを見上げるために作られた、半月型の形をした高台の展望台だった。
[43] 造化澗 (ぞうかかん)
物質世界の唯物園を後にして、精神世界の唯心庭の方へ向かう。数理江 (妙正寺川) に沿って細道があり、丘側は断崖になっている。現在は止まってしまったが、かつては岩石の間から湧水が流れ出していた。この様子から天地万物を生み出し育て変化させていく大自然の根源的な働きの万物創造の妙用を意味する 「造化」 をこの地形に重ね合わせて、この断崖一帯を造化澗と呼んでいる。
[44] 二元衢 (にげんく)
道を進むと、丘へ登る階段が分岐している。この場所は、大自然が生み出した万物は二元として対立する物質と精神のどちらに帰結するのかという哲学最大の分岐点を表している。先程通った唯物園と道を進んだ先にある唯心庭との岐路になる。この二元 (物と心) の分岐 (衢 = 分かれ道) という意味で二元衢 と名付けられている。
[45] 學界津 (がっかいつ)
唯心庭に向かう前に二元衢の場所にある登り階段を上がってみる。この坂道は懷疑巷に繋がっている。懷疑巷も二元衢と同様に唯物園と唯心庭との岐路なので、懷疑巷から唯心庭への道でもある。かつては坂道の途中にレンガ造の便所があり、赤字で 「人生必須之処在此 (人生必須のところ、ここにあり)」 と表示されていた。昔は便所で用を済ませ、この坂道の階段を下りて學界津 (現在では消滅) と呼ばれた妙正寺川の水際で手を洗っていた。人生を歩む中でついてまわる肉体的な欲や不浄を、学問 (学界) の水によって洗い清める行為を体感できるような仕組みだった。
[46] 独断峡 (どくだんきょう)
唯物園から唯心庭までは断崖を切り開いた細長くせまい道になっている。哲学上の 「独断」 は客観的な事実や他者の意見を無視し、自分の思い込みだけで物事を決めつけることを意味している。正しい論理を学ばずに自己中心的な思考 (独断) に陥ると、心は狭く険しい崖のようになってしまうという警告が込めて、独断峡と名付けている。この道を通る事で、自分の無知や偏見を自覚する (無知の知) 事を期待している。
[47] 唯心庭 (ゆいしんてい)
獨斷峽を進むと唯心庭への入口付近に、もう一つ直覺徑と名付けられた登り階段がある。直覚径については、唯心庭を体感した後のプロセスなので後述とする。直覚径の階段の下が唯心庭の入口になる。
先程散策した西の唯物園に対し、唯心庭は哲学上の唯心論を体感する場所で、哲学において心を本拠とする唯心を表しており、人間の心の内面世界 (人心観) を視覚化した修行の場として設計されている。精神が世界の根本であるとする考え唯心論では精神 (心)) はいくつかの階層や要素に分類されている。円了は唯心庭の中に 「主観」、「心理」、「倫理」、「理性」 の四つの概念的要素に分類して配置している。
[48] 心字池 (しんじいけ)
唯心庭の中央に心字池が造られている。当初は 「心」 の字の形に掘られた池だった。日本庭園の伝統的な心字池の形をベースに造られているが、その思想と概念は異なっている。日本の心字池は俗世の汚れを清めて仏の境地 (彼岸) に至る信仰・浄化のプロセスに対して、この哲学堂では人間の内面にある欲望 (悪) を自覚し、論理的な思考を経て最高の理性 (善) へたどり着く修行を視覚的に表している。
[55] 主観亭 (しゅかんてい)
唯心庭の高い所に四阿 (東屋) が建てられている。主観亭と名付けられ、この唯心庭での修行のスタートである主観の場所となる。主観は自分の目や心で世界を見る自分自身の意識を意味している。この主観亭は心界の休息所を意味しており、この小亭で休息を取りながら、自分の主観から庭 (心界) の風光を眺め観察することから始まる。
[50] 心理崖 (しんりがい)
主観亭から心字池へ降りて行くと、池の丘側は崖になっており、心理崖と名付けられている。日々揺れ動く、喜怒哀楽、不安、欲望など、環境によって変化する不安定な感情や本能が、唯心の一つの形の 「心理」 でこの崖がそれを象徴している。この崖を見て、自分の不安定な感情や本能を認識し、その起伏をコントロールする事の難しさ、心理崖が表す感情に支配されているうちは、普遍的な真理 (理性) にはたどり着けない事を理解する事が期待されている。
[52] 鬼燈 (きとう)
心理崖から心字池を見ると、鬼の石像が見える。唯心の要素の 「心理」 の次のステップの「倫理」 に入る。先に見た唯物園内の狸がは世の中を客観的に見ると嘘や騙したり、お世辞などで世渡りをしている人間社会だが、それでも良心を見出す事があ。これをどう捉えるかが人生観で、この鬼灯が表しているのは、自分自身を見つめた時どうなのかという人心観として対比している。鬼の像は人の心中には悪事を働かせる迷いが宿っている事を表している。鬼の頭の上には火袋の燈籠がある。人には良心の光明が存在し、それに火をつけて悪意を押さえ込むことができる。鬼を火袋が押さえつけている姿で表している。
[49] 倫理淵 (りんりえん)
鬼燈の後方に心字池の妙正寺川に倫理淵と呼ばれる淵がある。唯心の一つの形である 「倫理」 を表している。心理 (感情) の奥底には何が正しくて、何が悪いことかを判断する人間の良心 (道徳心) が存在し、それは感情のように簡単には揺るがない、より深い精神の領域とされ、常に人間には深い倫理観を持つべきと教えている。先に見た鬼を抑える灯火 (道徳心) の源がこの倫理淵になる。人間は常に悪念と良心の間で葛藤がある。
[53] 概念橋 (がいねんきょう)
心字池には概念橋という橋が架かっている。唯心の最終目的地の理性へ向かう橋。哲学に於ける概念とは、個々の事物や経験から、共通する本質を抜き出し、整理して言葉でその思考の枠組みを整理する事を意味している。この唯心庭で見てきた直観、心理、倫理には様々な事象があるが、感じ取るだけでは不十分で、その背景、理由、結果、相関関係を整理し、言葉で概念化しなければ、正しく思考を進めることができない。そのプロセスを橋を一歩一歩渡りながらじっくりと論理的に頭を整理する必要性を説いている。
[51] 理性島 (りせいじま)
概念橋を渡り切る (論理的な思考を整理する) と、心字池の中心にある理性島に到達する。
つまり 「概念」 を正しく整理できれば、人間の心 (唯心) の最も高い境地である 「理性 (感情に左右されない、ブレない最高の知性)」 を手に入れることができ、それによって自分の中の 「心理 (感情)」 や 「倫理 (葛藤)」 を完全にコントロールできるようになる。
[54] 先天泉 (せんてんせん)
心字池のすぐ側に先天泉と名付けられた天然の湧水があり、そこから湧き出る水が心字池に注ぎ込んでいる。人には経験や教育によって後から作られた 「後天」 の心のほかに、生まれながらに持っている道徳律 「先天」があり、宇宙の真理や天 (高妙尊厳) からの働きかけにより、この道徳律 (先天 = 理屈抜きの正しい心 [良心や真理]) が心に現れ (消息)、行動を促してくること(命令) を視覚的に表している。ここで湧き出している水は道徳律 (先天) を表し、その水が心字池に流れ込んで入る様は先天の命令が人の心の中に伝わってくることを例えている。先天を感じることは教育や経験 (後天) を超越る最高のものとしている。
[56] 直覺徑 (ちょっかくけい)
唯心庭の入口に直覺徑と呼ぶ階段があり、直線的な急坂となっている。台地上の時空岡への近道になる。哲学上の認識の一つに 「直観 (直覚、直感)」 があり、論理的な思考ステップを踏まずに、物事の本質や真理を直接かつ瞬時に捉える最高次の認識能力方法とされる。理性や論理の限界を超えたところにある究極の真理に到達するための方法とされている。例えば、絶対に疑えない真理は論理的に理解しようとするのではなく直観によって捉えるべき。ある対象を解明の為にその周りにある要素それぞれを分析しても知識だけが増えるだけで、対象に近づけない。直観は対象の内部に飛び込み、その絶対的な本質を捉えるとしている。仏教でいう、あれこれ悩む迷いを断ち切り、一瞬で悟りの境地 (不変の真理) に到達するヒラメキに相当する。円了は 「直覚」 と 「直角」 をかけて、途中で道が直角に曲がるような構造に設計されている。ただ、この直観は誰でも実践できるという訳ではなく、これまで体感した理性島に到達、つまり 「心理 (感情)」 や 「倫理 (葛藤)」 の完全なるコントロールができて可能となる。
[57] 認識路 (にんしきろ)
理性島に到達、つまり、 「心理 (感情)」 や 「倫理 (葛藤)」 を完全にコントロールできた状態になった後に真理へ向かうには、先程通った直覚径の方法と、地道に思考を重ねながら進んで方法がある。この後者のプロセスを表したのが、今から通っていく認識路で唯心庭と丘上へと迂回する道になっている。すべての事物を知覚し、真理理解を目的として、じっくりと思考し推理する過程をこの認識路で表している。ここでの論理に関する心の作用を哲学上では「認識」と定義されていることから認識路と名付けられている。
[58] 論理域 (ろんりいき)
認識路の途中に論理域と名付けた空間がある。認識路に表されている心理追究の思考と推理は主観的ではなく厳密に論理的でなければならないという事を認識させるために、この論理域が設けられている。
[59] 演繹観 (えんえきかん)
認識路を進むと、小広場があり、そこに傘の形をした四阿 (東屋) がある。演繹観と名付けられている。中野区の保存活用計画資料では 「心の内で道理に当てはめて断定するもの (内省)」 と定義されている。
先程の論理域で哲学的思考推理は論理に基づくという事を学んだが、その論理展開には 「演繹」 と 「帰納」 の方法が取られる。普遍的な思想の原則から、個別の物事を推論する事が演繹法になる。ここで休息を取りながら来観者は演繹観で休み、認識路での思考推論が正しくされているかを振り返る場所なのだろう。この四阿の形には視覚的な演繹を表す円了の思惑がある。一本の柱はすべての思考を支えるのはひとつの根本的な道理・原則の象徴で、それが無数の個別的な事実へと応用・展開されていく様子を広がる屋 (傘) で表している。つまり円了は、ひとつの正しい大前提 (柱) さえしっかりしていれば、そこから広がるすべての思考 (屋根) が安定して成り立つという演繹法のロジックを伝えている。
[60] 歸納場 (きのうじょう)
認識路の演繹観から坂道を登ると、哲学の論理的思考推理のもう一つの手法を表す歸納場がある。この場所も休息場となっている。中野区の保存活用計画資料では 「歸納場は広く目を外界に放って引証するもの (外望)」 と定義されている。帰納法は事実や経験を集め推理の上で結論を導き出す手法になる。この帰納法を行う際には、外部にある事実や経験も推理の材料とする事が大切で、この帰納場が広く外部を眺めることを推奨している。帰納場は現在ではコンクリートの土台しか残っていないが、かつては三本の脚で支えられた三角形の座席が設けられていた。いくつかの異なる事実 (脚) が組み合わされ、一つの安定した結論 (台) が成り立つ事を表していた。また、歸納場は広く外界を見渡す (外望) ための場所なので視界を遮る屋根や壁を作らず、外の景色や社会 (事実の象徴) を眺められるように設計されていた。
[61] 意識驛 (いしきえき)
直覺徑または認識路を登り切ると時空岡に入り、その入口には意識驛と名付けられた腰掛けが二脚据付けられた休憩所になっている。意識驛が休憩所となっている意図に興味が湧いた。哲学において 「意識」 とは、現在の自分が何を考え、なぜそう行動しているのかを完全に把握している状態を指しており、唯心庭から認識路を経て、様々な考えが、自分の意識としてしっかりと整理され、明確に自覚されている事をこの場所で再確認し、次の時空岡で宇宙の真理に近づく為の準備と覚悟を固める場とされている。
[13] 時空岡 (じくうこう)
意識驛で次のステップへ進む準備と覚悟を確認して、絶対的真理が存在する時空岡に入る。世界 (宇宙) は過去・現在・未来へと流れる時間と上下・前後・左右に広がる空間の二つの要素で成り立っている事から、それを表したこの場所を時間と空間が交差する、宇宙そのものを縮小した丘という意味で時空岡と名付けている。見晴らしの良い広場は四方を見渡すことで、宇宙の広大さ (無限の空間) を肌で感じられる様に設計されている。広場の周りには四聖堂や六賢台など、歴史上のあらゆる時間 (時代) を凝縮したモニュメントが配置されている。
[62] 絶對城 (ぜったいじょう)
円了は意識驛で意識を確認した次の場所に絶對城を勧めている。
この絶對城は1915年 (大正4年) に図書館 (読書堂) として造営され、一階には1886年 (明治19年) から約30年間で買い集めた国書、漢書、仏書など、特に明治維新以前の著作の数万冊を収め、公衆の閲覧に提供していた。絶対城は客観的な知を極限まで集積し、世界の万象 (あらゆる現象) を網羅する段階に位置付けられ、万巻の書物は哲学界の万象に見立て、この万巻の書を読み尽くせば、絶対の真理に到達できるとしている。真理に到達は、もはやそれに対立するものが存在しない 「絶対」 である事からと絶對城と名付け、あらゆる書籍を通じて自分自身や世界と向き合い、知識を武器として身につけ、真理へ到達するための精神的闘いの記録が集まる砦 (城) と位置付けている。円了は修養者に対して、個別の知識 (専門書) をただ詰め込むだけでなく、それらを貫く根本的な真理 (絶対) に大局的な視野で目を向ける事、国や他人に頼るのではなく、お仕着せの教えを信じるのではなく、自らの力で本を読み、自らの頭で思考して精神を高める精神の自立 (自己修養) をする事を求めている。
[63] 聖哲碑 (せいてつひ)
絶對城の奥には聖哲院があり、そこには聖哲碑が安置されている。四聖の姿を彫み、台石に円了により 「彼らの学徳に対し真心をもって仰ぎ慕うものである」 と記されている。
[64] 観念脚 (かんねんきゃく)
絶對城の二階は閲覧室になっており、観念脚と呼ばれている。ここで、絶對城に収められている書籍読み種々の観念を凝らすという意味で名付けられている。
[65] 観察境 (かんさつきょう)
絶對城の屋上には観望台が設けられて、観察境、又は、大観台と呼ばれている。この観察境からは四方が一望でき、観念脚に座って観念を凝らし、観察境に登って観察を広げる目的で作られている。これは、書物から得た知識 (内省) だけで終わらせず、外に出て、現実の世界や大自然を自分の目で観察、照合する事を教えている。
[66] 記念碑 (きねんひ)
絶對城の前には、二人の唐子を配した石碑が置かれている。これは1915年 (大正4年) に、大正天皇の即位の御大典の記念として開館した際に設置された。
[71] 宇宙館 (うちゅうかん)
絶對城の北には1913年 (大正2年) に建てられた宇宙館がある。この建物は哲学の社会教育の重要な拠点と位置付けられていた。宇宙の真理を研究する学問である哲学に於いて、宇宙真理の講話や講習の場が必要と考え、この宇宙館が建てられた。かつてこの宇宙館の内部には、教壇が設けられ、哲学講習会などの講義や一般人も含めた参加者とのディスカッションが定期的に開かれていた。宇宙館は八角形の形で建造されており、この八角形は東西南北とその間の四方を合わせた八方を表し、宇宙のすべて (全方位) を象徴している。この八角形の宇宙館に全世界から真理が集まり、そしてここで学んだ人々が八方 (社会のすみずみ) へと哲学の教えを広めていく社会教育の普及を目指していた。
[72] 皇国殿 (こうこくでん)
宇宙館内には独立したハ畳敷きの和室の皇国殿が造られている。宇宙館の内部は床のない土間になっていおり、講習会では土間が聴講席となり、土間の先の斜めを向いた皇国殿が教壇として使われていた。皇国殿の奥には日本に仏教 (東洋哲学) をいち早く取り入れ、十七条憲法を通じて 「和」の国家原理を築いた聖徳太子立像が安置され、日本の哲学・道徳の祖として、国家の原理を象徴する皇国殿の主として祀られている。
[70] 幽霊梅 (ゆうれいばい)
宇宙館の横には幽霊梅と呼ばれる梅の木が植っている。もともとは円了の自宅にあったもので、この梅には逸話が伝わっていた。
江戸時代、ある大名屋敷の庭にこの梅が植えられていた。そこへ、若くして非業の死を遂げた側室の幽霊が夜な夜な現れ、この梅の木の陰でシクシクとすすり泣いたという。
明治時代になり、この不吉な噂を耳にした妖怪研究家の円了は、大喜びでこの梅の木を引き取り、自分の庭へと植え替えた。その後、哲学堂公園の整備に伴い、この理外のエリアに移植した。
円了は妖怪や怪奇現象を人間の勘違いや錯覚の 「偽怪」 と、宇宙の本質的な謎である 「真怪」の二つに分類している。偽怪は人間の心が作り出した恐怖心で迷信にすぎず、物事は科学的・論理的に見る目を養うべきと教え、理性と不可思議の境界線を表現するために宇宙館の横に幽霊梅を移植している。その一方で、宇宙の仕組みそのものは、人間の浅い知恵では測り知れない不思議 (真怪)に満ちているとしている。
[75] 無盡藏 (むじんぞう)
宇宙館の後方には無尽蔵が建っている。円了が全国を旅した際に、自然が生み出した奇妙な形の石や木(奇石・怪木)、仏像、お札、聖画など哲学・宗教に関する品々、妖怪や怪奇現象にまつわる珍品などの貴重な品々を収める宝物蔵になっていた。仏教で尽きることがない無限の宝庫を意味する無尽蔵と名付けられている。円了は、大宇宙の真理や、人間の知恵、そして世界に広がる万物の姿は、汲み尽くすことができないほど豊かで無限であると考え、その世界の無限の豊かさを形にした場所となっている。この無尽蔵の品々は宇宙の不思議 (真怪) や、人間の心の不思議 (偽怪) を証明するための生きた教材として活用し、宇宙館で講義を聴いた人々は、この無尽蔵に収められた実物を見ることで、学んだ理論が、目の前の現実世界とどのように結びついているか、世界の多様性や不思議をリアルに実感することができたという。宇宙館で講義を効果的に行う為に宇宙館のすぐ側に建てたそうだ。
[76] 向上樓 (こうじょうろう)、[77] 萬象庫 (ばんしょうこ)
無尽蔵の一階は万象庫、二階は向上楼と名付けられ、ここに内外周遊で集めた数々の物や世界と日本の記念品が陳列されている。玉石同架式の配列で、妖怪棚、珍奇棚もあり、 勝海舟からいただいた文殊菩薩の木像、不動明王の画像、閣魔大王の彫刻物も保管していた。
[73] 三學亭 (さんがくてい)
宇宙館や無尽蔵のすぐ近く、小丘の木々の間に三角形の四阿 (東屋) が置かれ、三學亭と呼ばれている。三本の柱の上に三面の屋根が置かれている。宇宙館で講義を聴き、無尽蔵で世界の多様性を目にした来観者が、一人静かに学んだ事を咀嚼、本を読み、思索にふけるための読書・自習の場として作られたという。
三學亭は読書・自習の場ではあるが、神道、儒教、仏教の三学の堂でもある。円了の時代には西洋哲学が主流となり、日本が古くから大切にしてきた伝統的な学問が軽視される傾向にあった。円了はこれに危機感を抱き、日本の精神的基盤を作ってきた3つの重要な学問 (三学) を忘れてはならないと考え、この堂を建てたという。
堂内には三学それぞれの先人を祀っている。日本古来の伝統や精神の学問である神学 (神道) の平田篤胤、人の道や社会の秩序、道徳を重んじる儒学 (儒教) の林羅山、心の内面を見つめ、宇宙の真理を追究する仏学 (仏教) の釈慈雲を線刻した額が掲げられている。
[74] 硯塚 (すずりづか)
三學亭を降りて、その奥まった所に硯塚が設置されている。円了が全国各地を巡講したおりに揮毫に使った硯の供養塔になる。硯塚には漢詩が刻まれ、筆と硯は互いに頼りにし合って字を生み出し、文を育み、哲学が完成したという内容が記されている。
[67] 相對溪 (そうたいけい)
絶対城に横に溝がある。相對溪と名付けられ、三学亭がある小山の北側から宇宙観、絶対城の東側を通り、演繹観の脇まで続いている。相対渓は哲学でいう 「絶対の真理」 と 「相対の世界 (人が生きる迷いや差別の現実世界)」 の境界線を視覚的に表現している。知識を積み上げても、相対の溝を飛び越えなければ、絶対の境地にはたどり着けないという真理探究の厳しさを示している。
[68] 理想橋 (りそうきょう)、[69] 理外門 (りがいもん)
相対渓には理想橋と名付けられた橋が架かっている。この場所は裏門にあたり、相対の世界 (現実世界) から 真理の世界の理想の彼岸にわたるところ。
理想橋の脇にかつては理外門が置かれていた。元々は理想橋を渡った所にあったが、現在の簡易的に作られた理外門は理想橋の手前に置かれている。この理想橋は開扉則扉作屋という構造で、門の扉は上下に分かれ、上の扉を解いて外側に開き、下の扉を揚げて内側から支柱で支え、開いた扉が即席のひさし (屋根) になり、門としての壁の境界線が消え、東屋 (四阿) のような休憩所となるユニークな造りだった。この門は理外の理を表しているそうだ。哲学では宇宙や世界の事象は論理を尽くしても、理屈では説明のつかない不思議 (理外の理) が存在すると考え、この理外門は論理の限界の向こう側にある未知の領域を表す境界線になる。理外門のからくりは固定観念の破壊を示してもいる。人は門は空間を仕切り通るためのものという固定観念に縛られているが、物事はひとつの見方に縛られるべきでなく、固定観念の外側には、別の真理や役割が隠されていることを直感的に伝える目的で門が屋根に変わり休憩所が現れるという仕掛けにしている。
相對溪に架かる理想橋を渡り理外門をくぐることで、修養で学んだ論理や理想の精神を携えて、再び生々しい現実社会へと還っていく場所になっている。
これで哲学堂にある77の場所は巡り終わった。一つ一つの意味や意図を参照しながら見ていったのでかなり時間をかけた。今まで、漠然としていた哲学という学問が何を探究しているのか、そのプロセスが大まかではあるが、明確に捉えることができた。この哲学テーマパークを100年以上前に作った井上円了の凄さには驚かされた。現在の哲学では圧倒的に唯物論が主流だが、円了は仏教寺院に生まれ、仏教から多大な影響を受けていた頃から、唯心論が彼の思想のベースになっている。ただ唯物論を否定はせず、それを哲学の一つのステップと捉えている。彼にとっては大乗仏教の教えが理想的唯心論の極致と考え、当時の仏教には疑問を感じ、仏教改革を目指していた。
理想橋を渡り理外門をくぐった先にも哲学堂公園が続いている。門を出たところは、円了のいう人が生きる迷いや差別の現実世界の相対の世界になる。哲学堂で棍を詰めて散策したので疲れた、次は相対の世界でリラックスして休みながら散策を続ける。
つつじ園、菖蒲池 (旧須弥苑 [しゅみえん)]、正死海予定地)
理外門の東側には綺麗に整備されたつつじ園がある。この場所は一般公園と同じ様に、つつじの花や園内に丘や池を楽しみながら散策できる様になっている。
円了は哲学堂完成の後は現在のつつじ園などに哲学堂を拡張する哲学堂外苑計画を練っていた。
このつつじ園の場所には絶対的、根源的な宇宙の真理を表す須弥苑 (しゅみえん) を作る構想だった。人間のちっぽけな理性や二元論 (相対) で割り切れるものだけが世界のすべてではない。その外側 (理外) にこそ、真の宇宙の真理があるという考えで、仏教の宇宙観の象徴の須弥山 (しゅみさん) をおく計画だった。
梵天臺から低地に向かった場所を 「須弥山」、低地の現在の菖蒲池を 「正死海」、双方を結ぶ道を 「白道」として計画していたが実現には至らず、 東京都に譲渡した後、1967年 (昭和42年) 頃までに、現在のつつじ園と菖蒲池」に整備された。
梵天臺の斜面はつつじが植えられ、その間に池に向かう道がある。
斜面中腹から水が流れ出し小さな滝もあり、下の菖蒲池方向に流れている。
細い水路は菖蒲池まで伸びて流れ込んでいる。
さくらの広場 (旧聖沼 [せいしょう] 計画地)
唯物園の西側は現在ではさくらの広場になっている。哲学堂公園を造った時代には田圃で聖沼を造成する予定だったが、整備は行われないまま、哲学堂公園が東京都に譲渡された後にさくらの広場として整備されている。
計画されていた聖沼は、人間の理性を超えた先にある 「大いなる神聖さや絶対的真理の世界(聖の領域)」 を、水を湛えた静謐な沼として視覚的に表現しようとしていたそうだ。
哲学堂公園内には、この他に東京都に譲渡された後に造られた施設など幾つかあるが、5時間以上もかけて公園を散策し、日没も近づいているので、今日はこれまでとする。
参考文献
- 中野区史 上巻 (1943 中野区)
- 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
- 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
- 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
- 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
- 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
- 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
- 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
- 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
- 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
- 哲学堂公園保存活用計画(案) (2023 中野区役所)