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西宮市山口町郷土資料館

山口町の歴史(古代編)

2026.07.29 01:04

公民館講座

                                                                      平成23年9月6日 於山口公民館

                                                                          講師 橋本 正昭

はじめに

 私は、歴史学者でも、歴史研究者でもない。

自治会長の時、山口の歴史的事実を調べる必要が生じた。

平成10年阪神大震災により、丸山稲荷神社が倒壊した。

現在の場所に、神社を遷宮することになり、その用地を山頂の下山口丸山会の所有地と、現在の本社地(徳風会所有)と交換することになった。

 当時、山頂には以前、山口五郎左衛門時角をおまつりしていた建物が存在していた。

 この建物は、以前(昭和37年頃)大乗寺という宗教法人を設立して、山口五郎左衛門をおまつりするという計画が出てきた。

 法華宗の坊さんが来て、山口五郎左衛門をおまつりし、丸山を観光名所にするといい、下山口の住民も一部の人が賛同し準備をしていたが、資金的に行き詰まり、又丸山の土地を宗教法人に寄附の申し出もあり、その坊さんが信用できない人物であることが判明し、事業は中止された。宗教法人は解散された。

 建物は撤去されずそのまま放置されていた。

 それ以後、稲荷神社総代にてその寺院跡建物を管理、山口五郎左衛門の位牌と家臣74人の位牌をおまつりしていた。

 土地交換するに当たり、この寺跡の建物の撤去と、位牌の始末をする必要にせまられ、その処理に大変苦慮した。

 その時に山口の過去の歴史、山口五郎左衛門や、稲荷神社、銭塚地蔵尊を調べる必要性を痛感した。

又、私の家の北側にある「御旅所」が36代天皇である孝徳天皇の行在所跡があり、その存在意義が何であるかも全く知らず、又親や地域の先輩からも何も教えてもらえていなかった。

山口には古い歴史があり、又昔から丹波地方、播磨方面から、京、大阪に行く街道が通っており、公智神社や丸山稲荷神社、銭塚地蔵尊等、歴史も古く由緒もある事実があることを知った。

 孝徳天皇の事は、だれもおしえてくれなかったし、山口への行幸、行宮建設の事の記録もなかった。

 大化の改新、中大兄皇子、藤原鎌足等の事は学校で教わったが、孝徳天皇は全く知らなかった。

 そんな時、NHKの放送「その時歴史は動いた」という番組を見た。

 大化の改新の首謀者の1人が孝徳天皇である。

 その放送を見たのが、きっかけで古代の歴史、孝徳天皇有馬温泉行幸の事を調べ始めた。

 孝徳天皇の皇子が有間の皇子であり、万葉歌人で有名で悲劇の皇子であり。山口地域ともかかわりがあるのではないか、と言う事も分かってきて本格的に、日本書紀や他の古代の学者の研究文献を調べ始めた。

 孝徳天皇の山口行幸が単なる有馬温泉への湯治だけではなく、大化の改新の国政視察の為であるのではないか。

 多数の役人を連れ、3ヶ月も当地に滞在したというようである。

 公智神社とも、関わりがあるようである。

 そういうことが、判ってきたので、本来の好奇心もあり勉強してきた。それをまとめたものである。

 間違っていることがあるかもしれない。

 山口町史の第1章は、私が担当したが、考古学の先生の指導を頂きながら書いたが、山口町史ですので確たる資料に基づかなければいけない関係により、日本書紀を中心とした内容にした。

 他の学者先生や小説家が調べて出版している文献は、山口町史には記載していない。

 本日、出来るだけ沢山お話できればと思っております。

 本日お話してきた事をヒントにして、又調べて頂ければ有難いです。

 古代の確かな資料は、日本書紀や古事記だけのようです。

 日本書紀もどれだけ正確に当時の様子を記録しているかは解らない。

 作者は藤原鎌足の息子、藤原不比等だから、一族の都合の悪いことは書いていないと思われる。

 本日は、古代編だけですが、中世についても山口五郎左衛門時角、銭塚地蔵尊、稲荷神社と事はもっと調べる必要はあります。

 少しは調べたが、まだ不十分今後の課題です。

山下忠男 白鹿記念酒造博物館研究主幹

     「町名の話」山口古代を紹介

岩城康隆 元山口中学校教諭

     「公智」万葉人と山口の里

目 次

1. 孝徳天皇とは

2. 大化の改新  当時の時代背景

   蘇我蝦夷 入鹿 父子討滅のクーデター事件

3. 孝徳天皇即位の状況

4. 孝徳政府の関係閣僚

   新政府スタート

5. 孝徳天皇 有馬温湯行幸

6. 山口に行在所建設

7. 当時の政治状況

・ 難波長柄豊崎に遷都 ⇒ 理由

・ 中大兄皇子の反乱 飛鳥川辺○○に帰った事件

・ 皇后 間人皇女の不倫

・ 孝徳天皇の死

・ 天皇重祚

8. 有間の皇子の出生

9. 有間の皇子の悲劇 謀反事件

参考資料

日本書紀 他

1.孝徳天皇  36代天皇

生     推古4年(596年)

死     白雉5年(654年)10月10日 59歳

天皇在位  645~654

父     茅渟王(チヌノオオキミ)

       29代 欽明(キンメイ)天皇の曾孫

       30代 敏達(ビンタツ)天皇の孫

母     吉備媛王(キビツヒメ)

      29代欽明天皇の孫

皇后    間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)

       父 欽明天皇

       母 欽明天皇皇后  皇極・斉明天皇  宝(タカラ)皇女

       兄 38代天智天皇(葛城皇子→中大兄皇子)

       弟 40代天武天皇(大海人皇子)

妃     小足媛(オタラシヒメ)         

       父 阿倍倉梯麻呂大臣(アベノクラハシマロオオキミ)左大臣

      乳娘(チノイラツメ)

       父 蘇我山田石川麻呂大臣 右大臣

皇太子   有間皇子(アリマノミコ)

       出生地 山口村名来といわれている

       弟   定恵 遣唐使 三田金心寺建立者

       墓地  大阪磯長陸(大阪府南河内郡太子町大字山田)

・父茅淳王の勢力範囲を引き継ぎ、和泉河内地方に勢力を持っていた

・孝徳天皇とその一派が、大化改新クーデーターの首謀者と、遠山美都男先生 は言っている。

・ 日本最初の行政改革(大化改新)を推進した天皇であり、その国政視察に山口の地に行幸されている。

2.大化改新

飛鳥時代に、孝徳天皇、中大兄皇子、藤原鎌足等により行われた政治的改革

(日本最初)

蘇我蝦夷、入鹿親子を暗殺し、強大な権力を持っていた蘇我氏を滅ぼし、天皇家の権威を取り戻し、律令制を固める契機となったクーデター

この大化改新の件は、ベースは日本書紀であり、又インターネットの百科事典ウィキペディアの大化改新にも詳しく出ているので調べて欲しい。

又学者もいろんな本を出している。

(孝徳天皇に関係したことを話す)

大化改新の概要(専門知識は無い)

 大化2年(646年)1月 改新の詔を出した

  4か条の詔 

   唐を模範とした律令(意味説明)による中央集権国家の体制にする

  ① 公地公民制  私地(田・荘)、私民(部民)の廃止

     皇族や豪族が、個別に土地や人民を支配する体制を止めて、国家の所有とする

② 中央集権的な政治

   地方の行政企画を改める画一的な制度

   従来の国造り制度を廃止して、後の郡制に至制度

③ 班田収授法

   戸籍計帳をつくる律令的な民政制度

   公地を公民に貸し与える

④ 新しい制度を施行する統一的な租税制度

   これは後の条里制となるもの

   条里制については(西宮市史第1巻を参照)

   山口地区にも施行されております

 

蘇我入鹿暗殺クーデターの概要

 首謀者  中大兄皇子

      藤原鎌足

      軽皇子(孝徳天皇)

 NHK放送(平成16年12月8日)午後9時15分

「その時歴史が動いた」より

 蘇我入鹿暗殺の首謀者は誰か

通説では、中大兄皇子、藤原鎌足となっているが、軽皇子(後の孝徳天皇)との説が出てきたとしている。

645年6月12日 入鹿暗殺

13日 蘇我蝦夷自殺

当時、軽皇子は皇極天皇に、公地公民制度を提案していたのではないか

蘇我一族を、滅ぼし政治の実権を、入鹿より奪取、改革をしようと計画していたのではないか

中大兄皇子、藤原鎌足もそれに参画したとの説

※ 当時、藤原鎌足は軽皇子に近づいていたが、中大兄皇子に乗り換えたらしい

・遠山美都男 先生

    「日本書紀は何を隠してきたか」

    「大化改新―645年6月の宮廷革命」中央新書1943年

古代王朝の血の争乱三大史学

 大化改新から壬申の乱まで抗争相次ぐ激動の古代日本

・ 林 陸朗

「古代争乱と天皇権の確立」

・ 八木 允

「新 大化改新論」

・ 直木孝次郎

「壬申の乱」

・ 三田誠広

「炎の女帝 持統天皇」

 軽皇子も出てくる

※ クーデターは、外国からの貢物を報告する儀式のさいちゅうに行われ、皇極天皇も同席していた。皇極天皇は、中大兄皇子に王座を生前譲位しようと考えていたようである。

暗殺実行者は、中大兄皇子

・ クーデター実行当時の様子

・ 皇極天皇の行動

・ 王位譲位の背景がここにあった

3.孝徳天皇即位の状況

   天皇継承予定者

① 中大兄皇子  現天皇皇極天皇の次男

② 古人大兄(フルヒトノオオエ)

中大兄皇子の異母兄 欽明天皇の皇子

③ 軽皇子 皇極天皇の弟

当時の飛鳥時代の政治は、蘇我蝦夷、入鹿が、実権を握っていた。

この蘇我氏のあとおしで、天皇になったのが舒明天皇である(34代天皇)

舒明天皇の皇后が宝皇女(タカラノミコ)といい、舒明天皇の後の天皇皇極天皇(35代)になっている。

645年6月12日 蘇我入鹿暗殺

645年6月13日 蝦夷自殺

クーデターの後、翌日皇極天皇は、突如中大兄皇子への譲位を言い出した。

 日本書紀によれば、又山口町史にも書いている、天皇は中大兄皇子に譲位の遺志を告げるのだが、中大兄皇子は即答をひかえ、藤原の鎌足に相談する。

 鎌足は、「中大兄皇子の異母兄である古人大兄や叔父である軽皇子がいるのに、古人大兄をさしおいて、中大兄皇子が即位したならば、人弟として慎みに欠けるとの非難をあびるので、とりあえず軽皇子を大王に立てるのが得策である」と進言する。

 中大兄皇子は、鎌足の建策を取り入れ、これを女帝に奏上する。

 女帝は、軽皇子に譲位を打診するが、軽皇子は古人大兄が舒明天皇の皇子があり、年齢も大王に相応しいという二点にあった。

 ところが、古人大兄も即位を固辞。

 ついに飛鳥寺に出家を果たし、自らの王権継承資格を放棄、仏道修行と称し、吉野に隠棲してしまう。

 そうして、6月14日軽皇子は、王位継承を固辞することが出来なくなり、即位を承諾、高座(タカミクラ)の上にのぼり、内外に即位を正式に宣言する儀式を挙行した。

 ついで皇太子や左右大臣、内臣、国博士など新政権の陣容が発表されたとある。遠山美都男著の「大化改新645年6月の宮廷革命」によれば、この一連の記事には極めて不自然な点があると思われると指摘している。

 クーデターよりあと1日のうちで、女帝が退位を言い出し、3人の皇子による大王の譲り合いがあり、結局軽皇子による王権継承が決定、その日のうちに即位礼が執行されたというのは、はたして本当か。

 クーデターの計画も、女帝になにも知らされていなかったのも疑わしい

 それ故この改新の主導者は、中大兄皇子ではなく、軽皇子だとみる説が出てきている。

「貞観儀式」の「天皇即位儀」によれば、

この件を入れる

4.孝徳天皇の 閣僚 及政治 及行動

(岩城先生の 左大臣任命の意義 を入れる)

  皇太子       中大兄皇子   当時20歳

  内臣(ウチオミ)  藤原鎌足    当時32歳

  左大臣       阿部倉橋麻呂

  右大臣       蘇我山田石川麻呂

  国博(クニハカセ) 僧 旻(ミン) 唐留学の経験あり

            高向亥理(タカムクノクロマロ)

大化元年 孝徳新政府スタート

・ 新政府の樹立を一挙に海外にも知らせる

・ 朝鮮半島三国の使者が、飛鳥板葺宮(アスカイタブキノミヤ)に参向

・ 蘇我氏一族の軍事的基盤となっていた東国対策をすすめる

・ 戸籍の作成や田畝の検地実施

・ 仏法興隆の主導権を宣誓

・ 親蘇我氏 半中大兄皇子の豪族対策

・ 12月に飛鳥から難波に遷都したが、宮の準備は出来ていなくて、完成したのは 白雉3年(651年12月)で難波長柄豊崎宮に移る

・ 白雉4年(652年)5月 遣唐使の派遣(23年ぶりに行う)

   二人の大使任命     船 4艘

   その時 11才の有間皇子の弟 定恵も同行

遷都の理由

 飛鳥地方の豪族や寺院を中心とした、反中大兄皇子勢力の根深い抵抗にあい制圧する自信を失った為

5.孝徳天皇 有馬温泉行幸

   日本書紀 山口町史 参照

日本書紀

 舒明天皇 3年(631年)の条に

「秋9月19日 津の国の有間の湯(アリマノユ)にいでます

冬12月 天皇湯治よりかえります」

ついで「今10年(638年)冬10月に有間温泉の宮(ミヤ)にいでます

11年春正月8日 天皇温湯(ユ)よりかえります」

11日新嘗があったが、有間の湯におはせるによりて、新嘗を行われなかった」

とあり、有馬での行宮の存在が明示されている。

 

新嘗(ニイナエ)

   天皇がその年の新穀を神々に供え、みずからも食される儀式

孝徳天皇

大化3年(647年)冬10月11日 天皇有間の湯におはします

左右大臣 郡卿大夫(マエツキミタチ)従えり

12月晦(ツゴモリ)に天皇温湯よりかえりまして武庫の行宮(ムコノカリミヤ)

にとどまりたまふ

 この日に、皇太子(中大兄皇子)の宮に火災があり、「時の人 おおきにおどろきあやしむ」とある

 前年大化2年に大化改新が実施されている。

 天皇は、こうした政治の大改革を終えられた翌年のことであり、単なる入湯を

目的としたものではなく、国政の視察も兼ねての湯治ではなかったとも考えら

れる。

 しかも、3ヶ月近く滞在されている。

 天皇は、有馬の温湯で持病の脚気の治療をされ、その間左右大臣以下閣僚は、

政務に携わっていたのではないか。

 大化改新の新しい制度が、どの様に実施され、どのような影響を与えているかを見る為と考えられる。

 当時、北摂山口地方には、大化改新の班田収授の法や、条里制が実施されていた様である。

条里制については、山口村誌に記載されています。

又、西宮市史にも説明されているので参照

 舒明、孝徳天皇の有馬入湯時に作られた行宮(行宮)の所在地は、今もって定かではない。日本書紀にもこの事は、記述なく不明である。

 しかし、有馬地域では、古くから同町の「杉ヶ谷」近くであったという、口伝や古老の話はある。

「お宮跡 天皇屋敷」などと呼ばれている地

 しかし、確実な遺構や遺物が残っているわけではない(山口町史)

このことについては、

昭和13年(1938)に発行された「有馬温泉史話」小沢清躬著 に

 

宝徳4年(1452)に書かれた京都相国寺 鹿苑院の瑞湲和尚の日記の一部に

「午湯後與 平田及二三僧 憩 干橋西 善福寺 及 帰寺主出送 回指

 前面山腰 日昔 孝徳天皇 行宮ノ跡 干今請え御所墻内 」

 これが最も信頼できる史料であるとしている

 瑞湲和尚の言うところの「前面山腰」とは「杉ヶ谷」の西端に相当するとし、

 当時ここに御所墻内という名称で、行宮の遺跡が顕然と残っていたものと考え

られる。

 現在の温泉神社の横、炭酸源泉の下のほう 稲荷神社の下のほう 平坦な場所と思われる(山口町史)

他 行宮の所在地を紹介している資料

 ・有馬地誌

    杉谷 温泉の西南と伝えられ、孝徳天皇温泉宮の他

 ・有馬私雨

    杉谷 これ湯本より南

    孝徳天皇 みゆきのおはん時 かりのみや 作りし地なり

    そのかみの 皇居も 今は杉谷の 木葉天狗や 飛かけるらん

 ・摂陽郡談

    有馬行宮 有馬郡温泉山杉谷にあり 

    舒明天皇 孝徳天皇 行幸 古蹟今に三存

 ・摂津志

    有馬郡 有馬行宮 古蹟 湯の山杉谷にあり

    舒明天皇10年 御幸

    孝徳天皇 3年 御幸 行宮 これ

 ・有馬温泉略記

    田中芳男 が 明治17年5月 東京から有馬に来浴した時書いたもの

    「浴室より南方三町ばかりに杉谷行宮の遺跡あり 炭酸泉湧き出す」

    とあるので、当地の人々は この場所を行宮の遺跡と言い伝えていた

    ものと察せられる。

6.山口の行在所(古代役所)

   有馬温泉史話 

摂津国風土記

 日本書紀には「有間温湯にいでます」とあるのみで、その行在所の明記はない

左右大臣以下閣僚全員には(70~80人)下級役人、女官、従者、炊事、賄い人

物資運搬人として勤めている商工人、それら多数の人たちを収容する仮舎が必

要である。

 有馬川流域で、平地の広がり始めた山口地域に、そうした大規模な行在所を建

設して、そこから天皇は有馬の湯に向かわれたのではなかろうか

 山口町史 摂津国風土記  によれば

 天皇が行宮を造営されたとき、その材木を近くの 九牟知(クムチ)の山から

伐採して建てられたとある

 その材木が、あまりにも美しかったので、天皇はその木を誉められ、その木の

有った山を「功ある山」だといわれたことから「功地山」と名づけられたそう

だ。

 「功地山」は現在北六甲台1丁目にあった「お天上山」といって、現在の公智

神社は、かってこの「お天上」にあった

 公智神社は、有間皇子の母、小足媛の父安部倉橋麻呂と同族となっている久久

智氏が、山口町内に氏神として久久能智命を祀ったのが始まりであるといわれ

ている

 孝徳天皇が山口の地に行在所の建設にあたり、久久智氏が自分の所領地内にあ

る「功地山」から材木を伐採して資材を提出

 阿部氏は、奈良県松井市阿部を拠点としていた氏であったが、久久智氏とは、

同族的な意識をもって、六甲山北部地方一帯西域にも勢力を、伸張させていた

ものと思われ、小足媛が孝徳天皇の妃となって、宮廷に入ることになった故に

有馬行幸に際して、行在所建設に貢献することになった様である。

 中央集権的政治を強く意図されていた天皇は、有馬町や山口地域の豪族と結束

は不可欠なことであり、朝廷権威を示すうえからも良い機会と考えられたので

はないか

 古代より相当な樹木が繁茂していたと想像される。

 地下より発掘された化石(珪化木)によって証明される

 現在の北六甲台住宅地周辺一帯は、昭和初期までは、杉、檜の大木での良好な

建築材用の山林であった。

現在公智神社境内に、その珪化木の化石があります。

7.難波長柄豊崎宮

 ㋑ 遷都の理由等

  摂津郷工史論(日本歴史地理学会編)

 

難波の土地が交通上便利だけではなかった

 

 飛鳥には従来より大きな寺院もたくさんあり、大臣以下有力者の邸宅もあり蘇我一族の専横もあって、何れかの一大改革を行わなければ成らない時期に来ていた。

 

それで蘇我蝦夷、入鹿親子を滅ぼし、理想どおりの新政を行う必要があった。

それには、この際都を他に移して、天下の耳目を新たにせねばならなかった。

それで交通上も便利な難波の土地が、帝都として選定されたと思う。

海外との交通にも便利。

難波宮では、初めて支那の長安の都を真似をして、今の京都風の街を作った。

「日本書記」にも「始めて都域を営む」とあって、これはずいぶん、その当初としては進歩したものであった。

大小の道路を東西南北に基盤目に作り、宮殿も大変立派なものを造った。

㋺ 中大兄皇子 飛鳥に帰る

その翌年に都を大和の飛鳥に還る事になった。

大変不思議な事である。

これは中大兄皇子や藤原鎌足の考えである。

 理由は、飛鳥は推古天皇以来固定した都であって、元興寺、法楽寺その他有力なる寺院がたくさん在り、当時の佛教は中々盛んで、寺院の反対を受けては、

難波宮は、運営が成り立たなかった。

 これは、難波宮が悪いからではなく、飛鳥の勢力が未だ盛んであった結果であり、また飛鳥を中心とした豪族の勢力は多少衰えていただろうが、まだまだ

 しており、有力な豪族の種々反対があったと思われる。

そんな時中大兄皇子の宮も難波に出来ていたが、それが火事にあった。

(孝徳天皇、有間皇子行幸の時)当時の人々は怪火だと言ったとある。それは、焼打ち(放火)のあったことである。

 この焼打ち事件にて、中大兄皇子は難波を去って、再び飛鳥に帰る決意をし、天皇に奏上された。当時の情勢では、到底飛鳥の反対の対抗することは、出来ないと判断されたのであります。

 宮殿の焼打ちというのは、非常なことで、焼打ちはいつも反対者が取る最良の手段であった。

 孝徳天皇は、温厚な人柄で、容易に決断されなかった。せっかく出来た都を去るのは忍びないと思われたのであろうが、その時勢には、そんな緩慢なことではやっていけません。

 それ故、中大兄皇子は、孝徳天皇の同意もないのに、帰ったのである。

㋩ 皇后 間人皇女と中大兄皇子の不倫

 天皇は、不倫の件を、死の前に有間皇子に伝えた

聖徳太子の憲法のなかに不倫はいけないとある(調べたがわからない)

 故に、中大兄皇子はその事実を知っている、孝徳天皇、有間皇子、蘇我赤兄が生きている間は、天皇になれないと思っていたであろう。

 孝徳天皇が死亡、有間皇子を謀反の罪で処刑し、蘇我赤兄は優遇して取り立てている。

その後、斉明天皇が九州で死亡して7年後に即位している。

8.有間皇子の出生

 ・生誕 640~658年(19歳)

   父 軽皇子(36代孝徳天皇)

   母 小足媛

 

・ 舒明天皇 有馬温泉行幸 638年10月

          遷幸  639年1月

・ 皇子生誕 640年か639年

・ 大化元年 645年6月14日              皇子6歳

・ 647年10月(大化3年)    孝徳天皇有馬温泉行幸 皇子8歳

・ 654年10月10日(白雉5年) 孝徳天皇崩御     皇子15歳

・ 658年11月11日(斉明4年) 有間皇子絞首     皇子19歳

日本書紀によれば

「皇極天皇4年を改めて、大化元年とした。

 大化元年秋7月2日に 舒明天皇の御娘 間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を立て皇后とし、二人の妃を立てられた。

 はじめの妃は、阿部倉橋麻呂大臣の娘で小足媛(オタラシヒメ)といい、有間皇子を生む。

次の妃は、蘇我山田石川麻呂大臣の娘で乳娘(チノイラツメ)という」

とあります。

 舒明天皇が638年10月有馬温泉宮に行幸された折、父孝徳天皇が皇子時代に、母小足媛も一緒に同行されております。

 天皇は、翌年639年1月に遷幸されておりますが、小足媛はそのまま当地にとどまられた。

母小足媛の父阿部倉橋麻呂は、当時この有馬郡(青木郷)一帯を支配していた豪族であり、小足媛もここで生まれたものと思われ、生まれ故郷で有間皇子を出産しております。

 有間皇子出生場所については、定かな資料はないが、種々文献により、現在の山口町名来ではないかと推測される。

資料としては

① 国士大辞典(後で説明する)

   父軽皇子が、有馬温泉に脚気の療養に来ていた時に生まれたのによるであろう

② 有間神社誌

   現在の有間神社は、昔山口村名来の地(古書によれば山口村山王谷とある)にあり、その神社周辺の地が出生地であろうとしている。

  神社は715年(霊亀)に現在地に遷座されている。

  生母小足媛の出生地が山口町名来が有力とされており、名来の地名は元は千足村といい、小足媛の小足は千足からつけられたものとされている

  (山口町史P35)

③ 本居宣長の「古事記伝」

  上代皇子の名は、皇子を育てた乳母または、氏族にゆかりのある地名をつけることが慣わしであった とする説が正しいとしている。

  有間皇子の有間は、有間神社、有馬温泉、有間山の有間である

④ 有馬郡誌 三田市郷土研究家(中谷一正著)

 孝徳天皇崩後、有間皇子は母小足媛と有野町五社付近に、侘しく御住まいであったと推定している。

有馬郡(春木郷)は、有間皇子の誕生地且つ竹領地であると伝えている

9. 有間皇子の悲劇

・ 大化改新からはじまる。

・ 孝徳天皇が即位 

中大兄皇子は皇太子となり、政権の実権は皇太子が握っていた。

この二人の関係は、大化改新当初はうまくいっていた

・ 都を難波長柄豊崎に遷都(645年12月)したが、元の都飛鳥地方の勢力     

  が相変わらず強大で、難波の地ではうまく政治ができないことが判ってきて、皇太子は都を飛鳥に還すように進言するが、天皇は聞き入れないので、皇太子は天皇だけを残し、母(元皇極天皇)、皇后間人皇女、役人をも引き連れ、飛鳥に帰ってしまった。

・ 翌年、孤立した天皇は寂しく病死する(645年10月10日)

・ 中大兄皇子が天皇になるところであるが、有間皇子の存在を意識してか天皇の位に就かず、前に退位した母親である元の皇極天皇が、再び即位

斉明天皇となった。

・中大兄皇子は、皇太子として留任

  相変わらず、政治の実権を握っていた

・ 次の天皇後継者として、中大兄皇子と有間皇子とはライバル関係が生じてきた

・ 649年 孝徳天皇の右大臣であり、第2妃遠智娘の父蘇我倉山田石川麻呂も諌言によって自殺に追いやられる事件が起きた。

・ 647年9月(斉明3年)有間皇子18歳のとき、このライバル関係により自身の身に危険が迫ってきた事を感じ、皇子は狂気を装って難をさけようとして、牟婁の湯に療養に行っている(日本書紀)

・ 賢明な有間皇子は孝徳天皇の死によって、自分の立場がどうかをよく知っておられた。

・ 斉明天皇時代になり、大化改新の精神も衰え、天皇や中大兄皇子らの失政に批判が出始めた。

・ 旧孝徳天皇派による有間皇子の天皇即位を期待する動きも出てきた。

・ 有間皇子としては、父の死によりその輝かしい大化改新の理想が、崩れていくのを悲しく思っていただろう。

・ そんな時、蘇我赤兄が斉明天皇や中大兄皇子の失政を批判し、皇子の正義感に訴えて、天下を改新の政治に還すため、皇子自らが兵を挙げ斉明体制を倒す事を迫った。

・ 謀殺をそそのかしたのである

・ 斉明天皇は、3つの大罪を犯している

1つは、大きな倉庫を建てて、人民の財物を集積する。

2つは、延々と水路を掘って公の食料を消費する

3つは、舟に石を載せて運び、それを丘のように積み上げる

・ 赤兄に諮られている事は、露知らず、正義感をくすぐられた年若い皇子はとうとう兵を挙げることを決意する。

・ 658年10月 斉明天皇は有間皇子の勧めにより牟婁の温泉に行幸している

・ 658年11月5日 天皇が留守のときに実行しようと、赤兄の家に行き楼に登って相談していた。その時脇息が自然に折れた。

不吉な前兆だと判断して、二人は謀を中止して、皇子は帰宅した。

・ その夜中、宮中の衛兵や、赤兄の部下が有間皇子の家を包囲して皇子を捕らえた

・ 翌朝(6日)取調べの為、中大兄皇子のいる牟婁の湯に送られる

・ 皇子はまだ赤兄を信じていたが、どうもこれは中大兄皇子が赤兄を使って最初から仕組まれたと思われるふしがあった

・ 11月9日 とらわれた皇子は、従兄の中大兄皇子から直接取り調べられる。「どうして、謀反など起こそうとしたのだ」と厳しく問い詰められる。

・ 皇子は、何も申し開きをせず、ただ「天と赤兄が知っている。私は何も知りません」とだけ答えている。

・ 結局死罪を宣告され、再び都へ返される途中、藤白の坂(現在の和歌山県海南市内海町藤白)で絞首された

皇子19歳の時である

・ 護送される途中、磐代海岸で夜を明かしたとき、そこで詠んだという和歌が万葉集に2首載っている

『磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む』

磐代の浜にある松の枝に、願い事を結びつけておきます。無事に帰ってきて 再び見ることが出来ますよう祈ります。

『家にあれば 筍に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る』

家だったら、筍という容器にご飯を盛るのに、旅の途中であるので 椎の葉に盛って神にお供えします。

・ これが有間皇子謀反による処刑された経緯である。

・ これは中大兄皇子がライバルを追い落とす策略であったようです。

・ 実はこの事件の裏、本当の理由は、中大兄皇子と孝徳天皇の皇后間人皇女との不倫にあるといわれている

・ 中大兄皇子が孝徳天皇1人難波の宮に残し、飛鳥に帰った時孝徳天皇が恨みの意味をこめて、歌を残しており、二人の不倫を非難している。

・ 当時不倫は、聖徳太子  のときに 不倫はいけないと厳しく戒めていた。

・ 故に、過去天皇継承はずっと拒み続けている

・ 中大兄皇子が即位するのは、斉明天皇死後7年経ってからである。

・ 孝徳天皇が死の前に、間人皇女と中大兄皇子との不倫の件は、有間皇子に伝えていたようである。

・ 謀反事件のときでも、このことを赤兄に伝えていたかもしれないと、中大兄皇子は感じ、不倫の事件を知っている者を処分したのではないかと推察される。

・ 孝徳天皇の死後、有間皇子を殺し、関係者がいなくなってから、即位している。このことは小説にも書かれている。

この悲劇は、当時の人々の同情を買い、藤白坂を通った歌人は、有間皇子を悼み、歌を残しています、それが万葉集に出ています。

歌人 山上憶良

『鳥翔成 あり通いつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知らむ』

 有間皇子の御魂は、飛ぶ鳥のように、常にこの辺りの空を通って見ておられるであろうが、人こそそれを知らなくても、結び枝はよく知っていることだろう