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8/2 「主われを愛す」 三浦 遙牧師  聖句:ヘブ12:3-13

2026.08.02 01:20

 8月の第一主日を、わたしたちの教団は「平和聖日」と定めています。80年余り前の惨禍と戦争の記憶を心に刻み、平和を切に祈り求める日です。けれども正直に申せば、どれだけ訴えても世界の争いは止まず、わたしたちは平和を求めることに疲れ、諦めそうになる。そんな弱さを抱えて、本日はヘブライ人への手紙12章3〜13節「主による鍛錬」に聴きました。「主は愛する者を鍛えられる」——厳しくも響くその言葉に、「いったい何のために鍛えられるのか」との問いが湧いてまいります。

 先週の西日本献身キャンプでは、杉田俊介先生が「神義論」——善なる神がおられるのに、なぜこの世界に苦しみや悪があるのか——を語ってくださいました。先生は、どの答えも完全ではないと正直に認めつつ、苦しむ人に「その苦しみには意味がある」と外から押しつけてはならないと戒め、モルトマンの「神は、苦しむ人と共に苦しんでくださる」という言葉に最も深くうなずくと言われました。苦しみの理由を説明することよりも、苦しむ人のそばに立つこと。そこにこそ慰めがあるのです。

 聖書もまた、萎えた手・弱ったひざ・足の不自由な人へと眼差しを注ぎ、その人と共に歩む道を示します。そこで示されるのは、誰をも見下さず、どんな人とも共に歩んでいけるように、その道を探し続ける生き方です。説教題「主われを愛す」は、あの讃美歌の一節。神学者バルトは、生涯の学びを一言でと問われ、「主われを愛す、聖書がそう教えるから」と答えたと伝えられます。弱いわたしを、主が愛してくださる——この一点こそ、すべての土台です。

 わたしたちが鍛えられるのは、強くなって誰かに勝つためではなく、弱い自分が愛されていると知った者として、弱さを抱えた隣人と共に歩むためではないでしょうか。平和とは、一部の人だけでなく、すべての人が笑顔でいられること。「できないから言わない」のではなく、「できなくても、祈る」。弱いわたしたちを主が愛してくださるからこそ、恐れず、平和を祈り求め続けてまいりましょう。