ゾラ著『オリヴィエ・ベカイユの死』
描かれた
幽体離脱体験
823時限目◎本
堀間ロクなな
エミール・ゾラが1879年、38歳のときに執筆した短篇小説『オリヴィエ・ベカイユの死』を読むと、わたしは遠い日の記憶が呼び醒まされずにはいられない。
「ある土曜日の朝六時、僕は死んだ」(國分俊宏訳)――。こんな文章で物語がはじまる。ブルターニュ半島の田舎町で幼馴染みのマルグリットと結婚した「僕」は、パリに仕事を求めてふたりでやってきた。ところが、到着して早々に下宿屋で病気に倒れて3日間寝込んだのち、突如、ちゃんと意識はありながら全身がぴくりとも動かなくなってしまった。子どものころから虚弱体質だったものの、こうした事態は初めてだ。マルグリットは死んだものと受け止めて泣きじゃくり、同じ階に住むギャバン夫人やシモノー青年がせっせと面倒を見てやっているのがわかる。
「再びあたりが静かになったとき、僕はこの悪夢がまだずっと続くのだろうかと思った。僕は生きていた。自分の外で起きていることがなんでも残らず感知できるのだから。そこで、僕は自分の体が正確にどういう状態にあるのか考え始めた。これはきっと強硬症(カタレプシー)というやつに違いない。〔中略〕僕が死人のように硬直してしまっているのは、そしてまわりの人たちに死んだと思われてしまっているのは、この種の発作を起こしているからだ。そのうちまた心臓も鼓動を打ち始め、血液も循環し、筋肉の緊張も解けるに違いない。そうして僕は目を覚まし、マルグリットを慰めるのだ」
こうした展開が意味するものとは? フランス自然主義文学の鼻祖たるゾラが、あえてゴシックホラーめいた怪奇譚を手がけたのだろうか。まさか。わたしは、これはゾラ本人のなんらかの実体験にもとづいて書かれた作品だと考えたい。というのも、自分も過去にこんな体験と出会ったことがあるからだ。
もう半世紀ばかり昔、高校の修学旅行での出来事だった。宿泊先の旅館の大部屋で仰向けになったまま、いきなり手足の指一本動かせなくなったのだ。金縛り。周囲でクラスメートたちが賑やかに騒ぐのは手に取るようにわかるのに、こちらは畳の上で丸太のように転がっていることしかできなかった……。
あのときのわたしよりもずっと深刻な状態に陥ったらしい作中の「僕」は、やがてギャバン夫人の差配によって訪れた医師からあっさりと死亡を宣告され、葬儀屋が運んできた真新しい棺桶に納められる。そして、懸命な無言の抵抗も空しく、やがて馬が引く霊柩車で最寄りの教会へと運ばれていき、司祭が聖書の一節を読みあげたあとに墓地の一画に埋められてしまう。
そこで、「僕」に意外なことが生じる。にわかに全身に力がよみがえってきたのだ。かくして、身動きもままならないなかで、かろうじて右手で一本の釘を抜き取ると、それを使って棺桶の蓋に切り込みを入れて打ち割り、覆いかぶさる土砂をはねのけて地上へ這いあがるという、まさに超人的なパワーを発揮して脱出に成功するのだ。ところが、その足でまっしぐらに下宿屋に向かうと、すでにマルグリットは頼もしいシモノー青年と結ばれて、それをギャバン夫人が「あの旦那は死んでよかったね」と祝っている情景を目の当たりにすることに。
「再び通りに出たとき、僕は足ががくがくと震えて、ゆっくりとしか歩けなかった。けれども、それほどつらくはなかった。太陽に照らされた自分の影を見ながら、笑いを浮べてさえいた。なるほど、僕はまったく虚弱だった。それなのに、マルグリットを妻にしようなどと、突拍子もないことを考えたのだ。〔中略〕どうして今さら彼女の人生をじゃますることがあるだろう。死んだ人間は、嫉妬したりしない。頭を上げると、リュクサンブール公園が目の前にあった。僕はそこに入り、太陽の下に座った。とても穏やかな気持ちだった。マルグリットのことを考えると、今度はしんみりと優しい気持ちになった」
この結末は、前段の死の恐怖に囚われたリアルな描写に較べると、少なからずロマンティックに過ぎるような気がする。せっかく奇跡の生還を果たした「僕」は、妻の裏切り行為に対してもっと腹を立て絶望するのが自然だろう。
いや、そうとは言い切れないかもしれない。わたし自身、あの修学旅行の日に確かに体験したのだから。旅館の部屋にじっと横たわってしばらくすると、いきなり自分の五感が肉体を抜けだして宙に浮かびあがり、天井のあたりからクラスメートたちの姿を微笑ましい気分で見下ろしたのを――。「僕」が地中の棺桶から脱出して地上をさまよったとは同じ現象に違いない。ゾラもやはり幽体離脱を体験したのだろう、というのがわたしの見立てなのである。