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西宮市山口町郷土資料館

戰没者慰靈祭 催行百周年の栞

2026.08.07 06:34

戦没者の慰霊祭

 例祭日 毎年秋分の日(九月二十三日)

 祭場  西宮市山口町上山口字尼ノ子山二〇二五番地ノ九 忠霊塔の塔前

 祭典  仏式、神式 隔年で祭祀

 御英霊 明治十年(一八七七年)の「西南の役」以降、幾多の事変・戦役で戦病

     死され収骨されている諸士(百四十八柱)

 祭主 財団法人山口町徳風会

 創立  旌忠碑 明治四十三年(一九一〇年)三月十日(除幕式)

     忠霊塔 昭和十八年(一九四三年)六月十八日(除幕式)

忠霊塔(旌忠碑)の建立から現在の鎮座地への移転の経緯

一、 旌忠碑の建立 

  明治四十三年三月十日当時の山口小学校の校庭(現、山口幼稚園の東側)に建立された。碑石の題字は「陸軍大将 川村景明氏(元陸軍姫路第十師団長)」の揮毫(きごう)で刻印されている。建設費は、村民または有志の浄財で賄い、その額は二三八円であった。

 同年三月十日(当時の陸軍記念日)に除幕式と第一回の招魂祭を併せて執行した。

 その後、児童数の増加等に伴って、運動場の拡張、校舎の増築などにより、旌忠碑は新運動場の奉安殿の横に移転した。

二、忠霊塔の建立

  戦線の拡大と戦争の長期化に伴って、戦病死される士が多くなり、納骨できる設備のある忠霊塔方式に改善する必要が生じた。そこで、昭和十七年初め頃から工事が始められ、人夫はすべて隣保単位の村民の出役に依存した。

  経費もその浄財で賄い、昭和十八年春に山口国民学校の校庭に地上八メートル余りにおよぶ堂々たる忠霊塔が完成した。そして、同年六月十八日、除幕式、収骨式に続いて、第一回慰霊祭が執行された。

  なお、旌忠碑は忠霊塔の新設とともに英霊を顕彰する役目は終わったが、忠霊塔の左脇に 並んで安置され、二度目の移転を完了した。

三、 忠霊塔(旌忠碑)の山口国民学校からの撤去

 村民の善意により建設された忠霊塔は、敗戦により政教分離政策によって、わずか三年余りで国民学校の校庭から撤去しなければならなかった。

 当時の遺族会、澍真会(じゅんしんかい)(在郷軍人会分会の後継団体とも考えられる)などによって移転先が昭和二十二年九月、上山口字尼ノ子山に決定され、同年秋から施工、その資金は下山口など四大字縁故使用組合より十四万五千五百円、船坂縁故使用組合より三万六千三百七十五円の寄付を受け、そのうちから総工事費十四万六千三百九十四円をもって移転工事は完了した。

 そして昭和二十三年五月三日、澍真会主催で慰霊祭が執行された。

 また、忠霊塔と同じ山口国民学校の校庭に設置されていた旌忠碑は、現在、下山口四丁目の公智神社御旅所(おたびしょ)内に移転されている。

慰霊祭(招魂祭)の執行

 山口町における戦没者慰霊祭(招魂祭)の第一回目の挙行は明治四十三年三月十日、山口小学校々庭の旌忠碑碑前で執行され、以来、連綿(れんめん)として毎年欠かさず祭祀を続け、今年(平成二十一年)その第百回目を迎える。

 祭主については昭和二十一年までは山口村が、昭和二十二年から昭和二十七年までは澍真会(費用は山口農事実行組合の寄付金)、昭和二十八年から昭和三十四年までは山口生産森林組合、そして昭和三十五年から財団法人山口町徳風会が執行し、現在に至っている。

  祭場も昭和二十一年までは山口小学校々庭、昭和二十二年は明徳寺本堂、昭和二十三年からは尼ノ子山広場に変わってきた。

  忠霊塔、及び旌忠碑が現在地に移転されて共に六十年余を経過し、特に旌忠碑が建立されて百年を迎えている。戦没者諸霊の追悼を永久におもんずるとともに、両塔(碑)の刻んできた経緯や事情は決して風化させてはならない。

     『平成二十一年九月二十三日 戦没者慰霊祭 催行百周年の栞』