大槻文彦 著『言海』
朝ハ円ク、
正午ハ針ノ如ク
825時限目◎本
堀間ロクなな
大槻文彦の『言海』をひもとくと、わたしは胸の高鳴りを禁じえない。いずれのページからも日本初の近代的国語辞典に対する意気込みが立ち昇ってくるからだ。
明治維新を迎えて、政府は欧米列強の仲間入りをするためには、日本列島の各地で言葉がばらばらな状況から脱して全国統一の国語を誕生させなければならないと考えた。そこで、1875年(明治8年)、文部省報告課に勤務していた大槻にウェブスターの英語辞典やリトレの仏語辞典のようなものをわが国でもつくるよう命じたのである。幕末に仙台藩江戸住まいの儒学者の家に生まれたかれは当時28歳で、以後の人生を『言海』と名づけた辞典の編纂事業に捧げ、文部省が予算不足を理由として手を引いたのちには、有志から資金を募って自費出版を企図し、17年の歳月をかけて、ついに1891年(明治24年)に完成させたのである。
その巻頭の項はつぎのとおりだ。
あ 五十音図、阿行第一ノ仮名。此ノ一行ノ仮名、あ、い、う、え、おノ五音ハ、喉ヨリ単一ニ出デ、又発声ノ韻(ヒゞキ)トモナリテ、熟音ヲ成サシム、故ニ単音、又母韻ノ称アリ。あハ、下ニ、う、或ハふ〔うニ転ジテ呼ブモノ〕ヲ受クルトキハ、おノ如ク呼ブコトアリ、あうむ〔鸚鵡〕あふぎ〔扇〕ノ如シ。
すべての日本人のために新たな国語を確立しようとする気概がひしひしと伝わってくるではないか。この項に導かれて、五十音順に計39,103語がつらなっていくのである。その威風あたりを払うかのようなたたずまいには、おのずから武家の血を引く者の矜持さえ感じ取れるのだが、それだけではない。『言海』に魅せられた芥川龍之介から高見順、唐木順三、高田宏までの文士たちは、みなつぎの項を引用している。
ねこ(名)猫 〔ねこまノ下略、寐高麗ノ義ナドニテ、韓国渡来ノモノカ、上略シテ、こまトモイヒシガ如シ、或云、寐子ノ義、まハ助語ナリト、或ハ如虎(ニョコ)ノ音転ナドイフハ、アラジ〕古ク、ネコマ。人家ニ畜(カ)フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ、然レドモ、窃盗ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁(ブチ)等種種ナリ、其睛(ソノヒトミ)、朝ハ円ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰処ニテハ常ニ円シ。
なるほど、その後に刊行された数々の国語辞典ではお目にかかれない語釈だろう。大槻にとって言葉とは概念にとどまらず、あくまで血の通った実体をともなうものだったのに違いない。ことほどさように小さな生命に対しても真摯な眼差しを向けていたかれに突然の悲劇が訪れる。
『言海』の原稿整理がようやく最終盤に差しかかった1890年(明治23年)の秋、生まれてまだ1年にも満たない次女ゑみが風邪をこじらせて結核性脳膜炎で命を落とし、さらにはその看病にいそしみ打ちひしがれた妻いよもあとを追うように不帰のひととなったのだ。このとき、「ろ」の部を書き進めていた大槻は、「ろめい(露命)」の項に行き当たって「ツユノイノチ。ハカナキ命」としたためながら筆を取り落としたという。
わかれ(名)別 〔一〕ワカルルコト。ハナルルコト。〔二〕イトマゴヒ。離別。「旅ノ-」夫婦ノ-」-ヲ送ル」-ヲ告グ」訣別〔三〕出デテ支(エダ)ヲナセルコト。「家ノ-」血筋ノ-」支属 旁系
もとより、大槻が個人的な心情を原稿に持ち込むはずもない。しかし、ここにあえて差し挟まれた「夫婦の別れ」の例は、結婚後も『言海』の編纂に明け暮れて家庭生活を顧みず、さんざん苦労を舐めさせたまま、この仕事の完成を見ることなく永遠の別れに至った14歳年下の妻へのせめても哀惜の刻印ではなかったろうか。わたしにはそんなふうに思えてならないのである。
大槻は1928年(昭和3年)、80歳で世を去ったが、その机上には『言海』の改訂増補版たる『大言海』の「さ」行までの原稿が残されていたそうだ。