8/9 「家族という族」 三浦 遙牧師 聖句:エフェ5:21-6:4
8月9日、長崎に原子爆弾が落とされた日に、礼拝を守りました。数年前に長崎の平和公園を訪ねた折、「力強い男性の像を平和の象徴として立てていることに違和感を覚える」という言葉に出会い、「平和とは、力によっては示しえないものではないか」という問いを与えられました。本日のエフェソの信徒への手紙5章21節から6章4節も、実はこの問いと響き合います。
「妻は夫に仕えなさい」「夫は妻の頭」——正直に申せば、わたしはこの箇所が少し苦手で、男性が上、女性が下、という響きに、抵抗を覚えてきました。けれども、これは女性を低くする言葉ではありませんでした。当時ありふれた「家庭訓」の型を用いながら、パウロはその中身を、まったく新しいものへと造りかえたのです。「頭」とは偉さではありません。教会の頭であるキリストが、誰よりも低くなり、十字架でご自分を献げて愛されたことを指します。25節「キリストが教会を愛し、御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。女性が所有物のように見なされた時代に、身を投げ出してでも愛せと語る——常識を内側から覆す言葉でした。そして21節「互いに仕え合いなさい」。上下ではなく、互いを敬い合う交わりが示されています。
ところで、「家族」とは何でしょうか。「家」は場所や生活・帰属・継承を、「族」は共通のもので結ばれた人々のまとまりを表します。けれども今の日本で「家族」という言葉は、家の中に序列をつける「家制度」の重さを、どうしても引きずってしまう。「家族」という言葉は、温かいだけでなく、時に痛みも伴います。その場所で深く傷ついた方、帰る家がないように感じておられる方も、おられるかもしれません。だからこそ、わたしは教会を、いまの日本の「家族」とは呼びたくありません。わたしたちは、血でも序列でもなく、ただキリストの愛によって呼び集められた「教会という族」です。この族に上下はなく、だれもが、キリストに愛されたように愛され、ここに居場所を与えられています。