8月2日 主日礼拝
2026.08.10 09:08
8月2日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 26章19~23節
パウロにとってイエス・キリストとは何だったのか。
なぜパウロは宣教をしたのか。
同胞のものにも、異邦人にもなぜイエスを宣べ伝えたのか。
「理」という漢字がある。
二つの部署から成り立っている。
「王へん」
この意味は「磨く」「整える」石を磨き玉にする。
「里」
分ける、境界線、表面には見えない木目、筋の意味を持つもの。
「王へん」と「里」がくっつく。
スジを磨いていく、スジを整えていく。
物のスジを整えるものを「物理」という。
心のスジを探ることを「心理」という。
思考にあるスジを見つけることを「論理」。
「理」はそれぞれの分野ごとに存在している。
異なる「理」が共存している。
「理」がぶつかる。
争いになる。
今日は平和主日。
平和とは何か。
戦争がない状態、これも確かに平和。
だが、それだけではあるまい。
「自分の守りたいもの、大切にしたいもの、それをちゃんと維持できる状態を平和という」
との言葉を聞いた。
「理」がぶつかれば争いになる。
ぶつかっている「理」と「理」の先に重なり合う「理」がある。
これを「合理」という。
誰もが従える、合わせられる「理」。合理。
または真理という。
パウロは誰にでもイエスを伝えた。
パウロにとってイエスとは何だったのか。
「合理」だったのではないか。
どこにでも誰にでも通用する。
それがイエスという「理」。
悔い改める。
勇気を持って自分を振り返ること。
復活を信じる。
世界は終わり、別れが、絶対のものではない。
終わらない、続くところ。
誰もが「良い」と確信を持てるところ。
自分を受け入れ、この先を信じる。
そういう「理」を教会は「真理」とした。