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ペンと非暴力

キャリー・ハミルトンの論文に反論する

2026.08.10 10:16

昨年8月、『シモーヌ』というリベラル・フェミニズム系の雑誌に、キャリー・ハミルトンの論文が翻訳掲載された(邦題「セックス、労働、肉食――ヴィーガニズムというフェミニストの政治学」山﨑燈里訳)。ラディカル・フェミニストであるキャロル・アダムズの議論が、反ポルノグラフィ・反性売買の立場にもとづいていることへの批判として書かれた論文であるが、私はこれがさほど手堅い議論をしているとは思わなかった。そもそも、アダムズの議論がほとんど理解も紹介もされていない日本において、アダムズに対する反論のほうが先に翻訳されることにどれだけの意義があるのかも疑問に思う。もっとも、上記の雑誌は「食とジェンダー」「フェミニストが知っておきたいセックスワーカー運動」という二大テーマを掲げているので、ビーガニズムと「セックスワーク」擁護の双方に関わるハミルトンの論文がピックアップされたのだろうと考えることはできる。

そしてあいにく、この論文は反差別らしき文脈のもとで紹介されていることもあり、日本のビーガンや「ビーガンアライ」の中には無批判にこれを受容している人も少なくないらしい。そのため、この論文に含まれる問題の一端を指摘しておくことも無駄ではないと思った。包括的な批判は別の機会に譲るとして、ここでは特に問題が大きいと思われる一節に注目してみたい。

なお、私はこの論文の原文は読んでいるが、上記の翻訳は読んでいない。したがって、以下で触れる参照箇所は原文のページにもとづいている。


ハミルトンの議論

ハミルトンの論文は全体にわたって論点が錯綜している。しかしその中でも特に問題含みだと思われたのは、「キャロル・アダムズと『肉食という性の政治学』」と題した節である。そこでは次のような議論が展開されている(pp.115-6. 以下、論旨を歪めない範囲で順序を調整)。


―――――

  1. キャロル・アダムズは著書『獣でもなく人でもなく』の中で「動物身体取引」(traffic in animals)について論じている。
  2. 「動物身体取引」の概念はエマ・ゴールドマンとゲイル・ルービンの議論に依拠している。
  3. しかしゴールドマンとルービンは、アダムズとは対照的に、ポルノグラフィ反対派ではなく、性売買と人身取引を区別している。したがって反ポルノグラフィの立場をとるアダムズがこの両名を引用するのは驚くべきことである。
  4. さらにアダムズの別の論文では、食肉広告の表象が分析されている。アダムズいわく、食肉広告の表象が近年ますます性差別的・女性蔑視的・搾取的になった背景には、ポルノグラフィや性的取引の蔓延による女性の商品化がある。すなわち、性産業は「消費できる身体」のメタファーとイメージを提供している。
  5. アダムズは人身取引と性売買を混同しているように見える。
  6. アダムズの広告分析は性産業、移民、動物身体取引の仕組みについてほとんど何も解明しない。
  7. 近年の議論では、人身取引とグローバルな性産業を同一視することの問題が指摘されている。
  8. 人身取引の規制は移民のリスクを高めている。
  9. 移民女性を人身取引の被害者として表象すると、彼女らの主体性を否定する。
  10. 移民女性は様々な主体性を持つのに対し、食用動物は主体性を否定されている。移民女性の移動は支援されることが目指されているのに対し、動物の取引は規制されることが目指されている。
  11. よって、 両者は大きく異なる。
  12. 人間の身体移動と動物の身体移動の関係を理解するには、両者の経済的・法的コンテクストを見つめるところから始めなくてはならない。

―――――


以上がハミルトンの議論である。これを読んでどこがどう繋がっているのか分からず混乱する人もいると思われるが、恥じる必要はない。まさにこの議論は混乱しているのである。あいにく、私にはこれのどこに説得力があるのかがわからない。それでは順を追って問題を見ていこう。


立場が違えば参照できない?

ハミルトンは、ゴールドマンとルービンがアダムズとは異なる立場であることを強調しているが、本当にそれほどの違いがあるのかは疑問である。アダムズが参照している論文の中で、ゴールドマンは女性身体の売買や利用が抑圧的な社会構造の中に組み込まれていることを論じている。ルービンは後年、セクシュアリティの規制に慎重な立場を取ったが、少なくともアダムスが参照する1975年の論文の中では、「女性の交換」が男性らの社会関係を維持するために利用されている問題を論じている。それらの論文をもとに、アダムズが「動物身体取引」の概念を基礎付けることがそれほどおかしいとは思われない。

しかしそれよりも疑問なのは、仮に両名の立場がアダムズと全く異なっていたとしても、「だから何なのか」という点である。自分と異なる政治的立場をとる者が作った理論や概念は、たとえ部分的に有用であっても参照してはならない、とハミルトンは言いたいのだろうか。アリストテレスの性差別やカントの人種差別に反対する人々は、アリストテレスやカントの理論を参照してはならないのだろうか。

なるほどSNSの世界では、シーラ・ジェフリーズはトランス差別者であり、したがってジェフリーズを参照する者もトランス差別者であり、トランスジェンダーの権利を擁護する人々は絶対にジェフリーズを参照してはならない、などという鉄の掟もある。しかしそれは思考の単純化と先鋭化を促すSNSでの話であり、とてもではないが学問の世界とは相いれない。


人身取引と性売買を混同しているのは誰か?

アダムズは「動物身体取引」「性産業」「性的取引」などの語彙を使い分けている。「動物身体取引」という言葉が出てくるのは『獣でもなく人でもなく』に収録された論文の中だけであり、ハミルトンが批判しているもう一つの論文にこの概念は出てこない。動物身体取引はtraffic in animals、性的取引はsex tradeで、概念が異なる。そして、アダムズは性売買と人身取引が同じであるとも、移民の女性が主体性なき被害者であるとも示唆していない。そもそもアダムズは、自分の意志で国境を渡る移民女性について論じていない。

性売買と人身取引の混同や移民女性の主体性といった論点を持ち出したのはハミルトンである。そして皮肉にも、アダムズが使い分けている性売買・性産業・人身取引・性的取引などの概念を、ハミルトン自身が混同している――混同してはならないと自分で言っているそばから、である。

移民の話はさらにアダムズから遠ざかる。なるほど人身取引の規制が移民女性に悪影響をおよぼした側面はあるかもしれない。しかしそれはアダムズの議論とは何の関係もない。二度目の「だから何なのか」である。

最大限弁護的に読むと、ハミルトンはアダムズの広告分析を批判していると解釈することもできなくはない。アダムズは確かに性産業の広告において女性が不在の指示対象にされていると論じる。ハミルトンはそれに反論すべく移民女性の主体性を持ち出したのかもしれないが、女性自身に主体性があろうとなかろうと、広告においてその主体性が不可視化され、不在の指示対象とされることは充分にありうる。そしてまさにこれが次の論点に繋がる。


主体性を見て構造を見ず――リベラル・フェミニズムの限界

移民女性が主体性を持っているという議論は、アダムズに対する何の批判にもならないが、アダムズを離れたうえであえて触れるとするなら、そこで論じられている主体性の概念が甘すぎるという指摘もしておかなければならない。まずありえない話だが、仮にある移民女性が、男性による関与を一切挟まず、自分の意志で他国へわたり、自分の意志で性を売る選択をしたとする。しかし、そこで考えなければならないのは、ただ無批判に彼女の主体性を尊重するということではなく、なぜ彼女はその選択をしたのか、ということだろう。それは日本の大学教授がさらなる好待遇を求めてアメリカの大学へ渡るといった話ではない。移民の背景にはしばしば貧困や家族の養育や出身国のインフラ未整備など、様々な問題があり、そうした中で人々は海外へ出稼ぎに行くという選択をしている。そこに主体性があることは間違いないが、その主体性は政治経済状況によって枠付けられた主体性である。性売買で生きる人々の主体性ともなれば、通常、さらに本人の意思を超えた様々な力学がその背景に働いているだろう。構造を看過した主体性の肯定は無垢すぎるといわざるをえない。

他方、構造の支配や誘導を受けた主体性をも主体性というのであれば、産業施設に拘束される動物たちにも主体性はある。人間に殴られて前へ進む動物は、主体性がないのではない。動物たちは主体性があるからこそ、苦しみを回避しようとして相手の言うことに従う。強要とはそのようなものである。しかしそれを見て、「動物たちは主体的にみずから人間の意志に従っている」と言うのは欺瞞以外の何ものでもない。同じことを私は3年前にも述べている。


抑圧に苦しむ当事者を「被害者」とのみ捉えることは……その主体性を軽んじる態度だとしてしばしば批判されるが、絶対的な力の不均衡がある時に被抑圧者の主体性を強調すれば、それはむしろ抑圧の隠蔽となりかねない。
(『動物たちの収容所群島』あけび書房、2023年、p.120)



主体性を持っていること、主体性を発揮できることは、搾取の不在、強制力の不在、力関係の不在を意味しない。そして先述したように、それは不在の指示対象にされないことをも意味しない。移民女性や「セックスワーカー」の主体性らしきものを持ち出したところで、やはり「だから何なのか」でしかないのである。


*   *   *


以上はハミルトンの議論に含まれる問題の一端を示すものにすぎないが、この論文の欠陥は充分に伝わったと思いたい。より踏み込んだ批判を行なうには、反差別やリベラル・フェミニズムの中で言われる「セックスワーク」擁護論の問題点についても検証しなくてはならないが、それについては当面、私が翻訳したラディカル・フェミニズムの文献――特にバリー(2024)ジェフリーズ(2025)――と、そのあとがきを読んでもらえばよいだろう。なお、ハミルトンの単著を批判したコリー・レンの書評も参考になる。

Can Choice Feminism Advance Vegan Politics?


ビーガン・フェミニズムの議論がほとんど紹介されていない中、他に先んじてこの論文が翻訳紹介され、問題の多さに比してその影響力が大きなものとなってしまったのだとしたら、嘆かわしいことというよりない。最後にもう一つの参考として、「セックスワーカー差別」に反対する人々が守りたがっている買虐者(性を買う者)の言葉を引用しておきたい。


フィリピン人に本気になること? 絶対そんなことはない。家庭が大事なんや。家庭を壊すようなことはせん。あくまで、遊びでフィリピンに来とるから。それはうちのもん(妻)もよう知っとる。こそこそと遊びはせえへんのや。「お前がいちばん大切。ほかの女とはあくまで遊びやから、心配せんように」と言うてある。……それで、女の子とソクソクしたあと、モーテルから「もうすぐ帰るからお茶漬けつくっといてくれ」言うて電話するんや。そしたら、ちゃんと用意してあるんや。
(谷口和憲『性暴力のない社会へ』「戦争と性」編集室、2026年、p.77)



このような人物は買虐者として全く例外ではない。その実態をさらに知りたければ、風俗店の口コミサイトを見るのもよいだろう。買われる人々の主体性に関係なく、買虐者は買った相手を玩具扱いしている。「全ての差別に反対する」人々が、「セックスワーカー差別反対」というもっともらしい名目のもと、このような世界をも抱き合わせで肯定するのであれば、私はビーガンとしてもフェミニズムの支持者としても、ためらいなくその正義らしきものを拒否する。


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