大宅壮一&松本清張 出演『白と黒』
ふたりの巨人の
存在感が象徴するもの
826時限目◎映画
堀間ロクなな
それは、昭和30年代の世相を窺うには格好の映画に違いない。堀川弘通監督の『白と黒』(1963年)だ。
なまめかしい寝室で若い男が年増の女の首を絞めるファーストシーンからはじまる。男は新進弁護士の浜野(仲代達矢)、女はかれの恩師で弁護士会会長の宗方(千田是也)の妻・靖江(淡島千景)。ふたりは長らく不義の関係を結び、別れ話がこじれたあげくこうした事態に至ったのだった。ところが、前科4犯の脇田(井川比佐志)が現場から盗みだした宝石を所持していたことから容疑者として逮捕され、東京地検捜査検事の落合(小林桂樹)の取り調べの前に宗方夫人の殺害を自供する……。
果たして、高級住宅街の密室で何が起きたのか? その真相をめぐって橋本忍の脚本はスリリングに盛りあげていくのだが、ただし、わたしが当時の世相を読み取る資料として珍重する理由はもっと別のところにある。作中でテレビのコメンテーター役に、マスコミ界にあって辛口のご意見番として威勢をふるった大宅壮一と、社会派推理小説のブームを巻き起こした松本清張が顔を出すことだ。いまにして、ふたりの巨人が放つ存在感はまさに昭和30年代を象徴しているように見えるのである。
試みに、このころの両人の言説を引いてみよう。まず、大宅壮一は、テレビ時代の到来を指してあまりにも有名な「一億総白痴化」のレッテルを張った経緯について振り返った文章から。
新しいマス・コミとして登場したばかりのテレビは、目でみるという特性からも、当然まず「興味」で人をつることを考えた。興味に訴えることがかならずしも悪いとはいえないが、はげしいダイヤル争奪、視聴率競争は、そのまま、放っておけば、興味の質を考える暇がなく、もっぱら度の強さをきそうことになる。〔中略〕
視覚の刺激の度=視る興味も、質も考えずに、度だけ追っていくと、人間のもっとも卑しい興味をつつく方向に傾いていく結果にもなる。人間は、たとえば街角で犬が交尾していれば、立ち止って見たい気持ちを持っている。見終わったあとでは、バカバカしい、用事があるのに犬の交尾なんか見て……とはいうが、火事があれば、また走っていく、というわけだ。
刺激が過剰になり、刺激の度をますます強くしなくてはいけない状態が続けば、その刺激のない平常の時間に、人はボンヤリとしてしまう。それは痴呆化するということである。(『「一億総白痴化」命名始末記』1958年)
ついで、松本清張は、自分が貧乏ゆえに小学校卒業の学歴しか持たないことで味わってきた劣等感について論じた文章から。
私の考えでは、学歴のない者は絶対に一流会社に入社出来ないと思っている。警備員とか自動車運転手は別である。昔は、給仕から社員に登用されて、実力のある者は幹部にも昇進したが、今日では段々この途も狭められ、給仕も停年制を設ける会社が多くなった。小学校や中学校出よりも、大学出の社員を一人でも多く入社さけたいからだろう。
この劃一主義は勿論誤っている。学校の差別は人物実力の差別と同じ値ではない。それは誰にでも判っていることだが、世間も会社もやはり大学出を小学校卒よりも尊重する。〔中略〕
だが、大きな眼からみて、大学卒もだいぶん値うちが下ってきて、学歴のない者と、昔ほどの距離がなくなった。羨望することも卑下することもない。上級学校を出た途端に勉強をストップする者と、小中学校を出てから一生を勉強して通すものと、どちらに最終の勝敗があるだろう。再度云うならば、人生には卒業学校名の記入欄はないのである。(『学歴の克服』1958年)
こうして眺めると、『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言し、高度経済成長に突入して、天下泰平・奢侈安逸の「昭和元禄」を謳われたこの時期に、日本人の知的劣化が鋭く意識されはじめたことがわかる。だとするなら、それはいっそう深刻さを増しながら現在へと引き継がれてきた危機感の、まぎれもない端緒だったと見なせるのだろう。映画『白と黒』もまた、落合検事の浜野弁護士に対するこんなセリフで結ばれているのである。ひどく苦い後味をともなって。
「なるほどね、きみもぼくもバカだよ。しかしね、バカのほうがいいよ。なんだかわからんが、バカのほうが……」