vol.214「家康の妻と子供」について(後編)
うわ〜まだまだいるよ〜。
しかも名前が似てるからワケ分かんなくなってきたよ〜。まとめ切れるかな。。
●側室「西郡局」(にしのこおりのつぼね)
今川家に従属する「上ノ郷城」の城主「鵜殿長持(うどのながもち)」の娘。永禄3年(1560)、上ノ郷城の落城をきっかけに、西郡局は人質として徳川家康の側室となり、家康の次女「督姫(とくひめ)」を出産。
男児には恵まれなかったが、家康の長男「信康」が亡くなると、その遺児「登久姫(とくひめ)」と「熊姫(ゆうひめ)」を育てており、愛情深く、家康に信頼されていたことが伺える。
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● 次女「督姫」
督姫は後北条家5代当主「北条氏直」(ほうじょううじなお)へ嫁がされる。政略結婚ではあったが夫婦仲は良く、2人の女児に恵まれた。だが、秀吉の小田原攻めにより降伏とあいなり、氏直は義父・家康による助命嘆願によって、助命されたものの、敗北による精神的ショックから立ち直れず、病に伏せたまま死亡。北条氏は断絶となる。
氏直と離縁ののち、秀吉が取り計らって「池田輝政」のもとへ嫁入りし、池田輝政が大出世するきっかけを作る。波乱万丈の人生を歩んだ督姫でしたが、最終的には9人もの子どもを生んだ「肝っ玉母さん」であった。
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● 側室「於愛の方」
「於愛の方(おあいのかた)」の通称で知られる「西郷局(さいごうのつぼね)」は、徳川家康の側室であり、容姿が美しく、温厚誠実な人柄で、家康からの信頼も厚かったとされ、家康の三男「秀忠(二代将軍)」と、四男「忠吉(尾張清洲藩主)」の生母となった。
家臣や侍女達からも慕われていたと云われるが、天正17年(1589)に28歳で死去。死因は不明。家康の正室であったにもかかわらず非業の死を遂げた「築山殿」の侍女によって毒殺・暗殺されたとする説もあるものの、確かなことは分かっていない。
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● 四男「松平忠吉」
秀忠とは一歳違いの弟。兄弟のなかでも特に父の寵愛を受けて育っており、学問を怠らないよう励ます家康からの手紙なども現存。将来の徳川家を背負う逸材として期待をかけられていたことが分かる。
元服して間もなく、松平忠吉は正室を迎える。徳川家臣団の最高峰に位置する徳川四天王のひとり「井伊直政」の娘である。戦上手の義父を得たことで武芸にも精進。「天下の諸侯が松平忠吉のために命をなげうつ」ほど、高い人望を得ていたとのこと。
その器量は、関ヶ原の戦いにおいて発揮された。このとき、松平忠吉は初陣であったが、義父・井伊直政とともに着陣。戦いの火蓋が切られると、猛将「福島正則」と先陣を争った末に、松平忠吉が一番槍の手柄を立てたとされている。また、戦いの終盤には、退却する敵方の「島津義弘」軍を追撃。殿(しんがり)を努めていた、島津義弘の甥「島津豊久」を討ち取るという大功も挙げた。これにより松平忠吉の名声は天下に轟くことになる。
しかしその後、腫物を患うなど病気がちになり、慶長12年(1607)に江戸へ下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去、享年28。後を追って「小笠原吉光」ら4人が殉死した。
唯一の実子が早世したため忠吉には嗣子がなく、忠吉の死をもって東条松平家は断絶となった。清洲藩は弟の「徳川義直」が継いだ。同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれている。
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● 第二正室「朝日姫」
秀吉の目的は家康自身を上洛させ、諸大名の前で家康に臣下の礼をとらせることであった。家康が「上洛したら討ち取られる」と懸念しているのでは?と考えた秀吉は、妹の朝日姫を家康に嫁がせることで、自らも人質を送ることを考えた。このとき朝日姫は44歳、家康は45歳。当時の感覚でいえば老齢と言ってもいい年齢である。
夫と2人で暮らしていた朝日姫を強引に別れさせ、家康のもとに送りつける。徳川方も、花嫁ではなく人質として扱った。夫と別れさせられ敵地に送られた朝日姫の心中を思うと、かなり残酷な仕打ちだ。
しかし家康はそれでも上洛しない。どうやら朝日姫が本当に秀吉の妹か疑っていた節があった。すると秀吉は、今度は見舞いと称して自分の母親である大政所を岡崎に送った。大政所が岡崎に着き、朝日姫と手を取り合って泣いているところを見て、ようやく家康は覚悟を決め、上洛して秀吉に跪いた。
ただ、家臣たちは家康に何かあればと朝日姫と大政所のいる屋敷のまわりに薪を積み上げ、いつでも焼き殺せるようにしていたとの話もある。
家康の上洛によって朝日姫の人質としての役目は終わったが、彼女はそのまま家康の正室として駿河に居を構え暮らした。が、体調が優れず輿入れから3年後に亡くなった。死因は「気うつ」と言われている。
気うつとは、一種の精神疾患であり、強い不安から起こるもの。静かな暮らしを奪われ、場違いな武士の世界に組み込まれ、長年連れ添った夫を奪われ、そして天下のためと言われ見知らぬ土地と敵対心の強い集団のもとに送られた朝日姫の心は、すでに限界だったのだろう。
もちろん二人の間に子はなかった。
https://toyokeizai.net/articles/-/698429?display=b
● 側室「下山殿」
「おつまの方」とも呼ばれた下山殿は、武田信玄に仕える家臣「秋山虎康」の娘として生まれた。のち、同じ武田家の家臣「穴山梅雪」の養女となり、徳川家康へ輿入れし、徳川家康の五男「武田信吉(のちの松平信吉)」、三女の「振姫」を産んでいる。
「下山殿」と呼ばれるのは、穴山氏の旧領「下山」が由来。天正19年(1591)28歳の若さで死去。
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● 五男「武田信吉(松平信吉)」
慶長7年(1602)、先の合戦で西軍に属した疑いをもたれた佐竹氏に替わり、その領地であった常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。
慶長8年(1603)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。死因は湿瘡(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)。子女もいなかったので、これにより武田氏は再び断絶した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/武田信吉
● 三女「振姫」
「振姫」のちの「正清院」が成長して輿入れする年頃になったとき、父である家康はまだ天下人ではなかった。振姫は、秀吉の命で、文禄4年(1595)に会津若松城の城主「蒲生秀行」と結婚することになる。振姫18歳、蒲生秀行は3歳年下の15歳であった。
蒲生秀行が30歳で死去したため実家に戻った振姫は、父・徳川家康の命で、今度は紀州藩主・浅野家に再嫁することになる。37歳という年齢ながら周りの懸念を払拭するかのように、待望の男子を出産。しかし、当時としては非常に高齢出産だったため、産後の肥立ちが悪く、振姫は38歳で逝去してしまう。
だが、浅野家で振姫が命がけで産んだ血筋は、脈々と続いていくこととなり、江戸時代を通じて存続。なお、「忠臣蔵」で有名な赤穂浅野家は、その系統である。
● 側室「茶阿局(ちゃあのつぼね)」
茶阿局はもともと「久(ひさ)」という名前で、鋳物師(いもじ:鋳物職人)の後妻として暮らしていたが、ある日突然、代官に言い寄られ、それを拒むと夫を殺害されてしまう。仇を討つことを決心した久は、鷹狩りに訪れていた徳川家康に夫の謀殺(ぼうさつ:計画的な殺人)を直訴。
これをきっかけとして徳川家康の奥へ召し出された久は、持ち前の聡明さで、家康の信用を得て、側室となり茶阿局と名乗るまでになった。家康との間に、「辰千代(のちの松平忠輝)」・「松千代」の双子を生むが、双子のうち松千代は6歳という若さで早世。
元服して松平忠輝を名乗るようになった辰千代に、茶阿局は前夫との子2人を小姓として召し出した。茶阿局は家康の晩年にも良く仕え、死に水を取ったのも茶阿局だとされている。
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● 六男「松平忠輝」七男「松平松千代」
六男「松平忠輝」は、政略結婚により「伊達政宗」の長女「五郎八(いろは)姫」と結婚。粗暴な性格が災いして家康から嫌われていたという噂もある。家康の死後には兄の秀忠から領地を没収されてしまうが、当時では長寿となる91歳まで生きた。
七男「松平松千代」は、生まれてすぐに深谷藩主となったが、6歳という若さで亡くなった。
● お亀の方
徳川家康が50~60歳の頃に寵愛した側室三人衆の1人で、健康的&豊満なスタイルが魅力の女性だったようである。お亀の方が家康に嫁いだエピソードとして、子どもを行水させていたところに家康公の大名行列が通りかかり、慌てて子どもごとたらいを持ち上げたお亀の方を目にした家康公がその怪力に驚き、惚れ込んで側室に招いた、という伝承がある。
● 八男「平岩仙千代」九男「徳川義直」
八男「平岩仙千代」は、平岩親吉の養子となるが、松平松千代と同様、6歳という若さで亡くなった。
九男「徳川義直」は、14歳で大坂冬の陣にて初陣。家康の死後に尾張に入国し、徳川御三家の一つである尾張徳川家の家祖となった。
● 側室「蔭山殿」
家康が多数抱えていた側室のひとりで、のちに紀州徳川家の祖となった「徳川頼宣」、同じく水戸徳川家の祖となった「徳川頼房」の生母として知られているが、それ以外の出自などは定かになっていない。しかし、蔭山殿が頼宣と頼房を産んでいなければ、やがて江戸幕府の存続が危ぶまれていた可能性は否定できないことから、家康が多数抱えていた側室の中でも、特に重要な存在であったと言える。
● 十男「徳川頼宣」
紀州徳川家と言えば、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」のイメージが強いが、祖父にあたる頼宣も、紀州藩の名君として尊崇されていた。父・家康から期待を寄せられていた頼宣は、幼少期から領地を与えられ、領主としての資質を発揮。若くして紀州藩主となってからは藩整備に尽力し、産業・法令・教育といった様々な分野で政策を打ち出すなどして、紀州を大きく発展させた。
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● 十一男「徳川頼房」
晩年の家康が儲けた子で、甥にあたる3代将軍「徳川家光」と1歳差であったことから、頼房と家光は幼少期から親交を深めていた。この2人の関係によって、のちに水戸徳川家は徳川御三家のなかでも特殊な立ち位置となってゆく。父・家康の血を受け継ぎ、文武両道な人物であった頼房は、水戸藩の名君として藩政を主導。「水戸黄門」でお馴染みの「徳川光圀」の父にあたる。
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● 四女「松姫」五女「市姫」
四女「松姫」の母は「普照院」または「茶阿局」と言われているが、詳細不明。若くして亡くなった。
五女「市姫」の母は「於梶の方」。生まれてすぐに伊達政宗の嫡男「忠宗」と婚約したが、3歳で亡くなった。
● 側室「阿茶局(茶阿局と似てるが別人)」
家康から絶大な信頼を得、二代将軍秀忠も実母のように慕ったという。今川家の家臣に嫁ぎ、2人の男子を産むが、結婚のわずか3年後に夫を亡くす。しかしながら、持ち前の気丈さと才覚で物品の商いを成功させ、浜松城内にも出入り。その浜松城内にて家康に見そめられ、側室となった。25歳のこと。
女の身でありながら馬術や弓術も身につけていた阿茶局であったが、他にも特別な才能を持っていた。それは、今で言うドレスコーディネーターの才能。戦乱の世においては、他国の使者や代表との会談の場では、どのような装束に身を包んでその場に臨むかが大きな意味を持った。
それにより、相手をどのように見ているかが示されるためで、政治的な駆け引きには重要な要素。阿茶局は衣裳選びに抜群のセンスを持っていた。家康はそのような彼女を頼りにし、のちには、「大坂冬の陣」にて、豊臣氏との和平交渉という特大の任務も与えている(そして彼女は見事にその大役を果たした)。
数々の戦にも同行した阿茶局だが、小牧・長久手の戦いに、妊娠中の身で同行していた彼女は流産してしまい、子どもを産めない体になってしまった。そのため、家康に特別に愛された女性でありながら、子どもをもうけることはなかった。
https://alpha-katekyo.jp/tips/tips212/
● その他、子をもうけていない側室たち
於夏/奈津の方/おなつのかた(清雲院)
於梅の方/おうめのかた(蓮華院)
阿牟須の方/おむすのかた(正栄院)
於仙の方/おせんのかた(泰栄院)
於六の方/おろくのかた(養儼院)
信寿院/しんじゅいん
於松の方/おまつのかた(良雲院)
あ〜多かった〜。血筋を残すための大事なお仕事なのは理解できるが、なんか羨ましすぎて腹立ってきましたね途中から。までも秀吉みたいな無理矢理ではないところが、さすが家康様。しかも、あえて出産歴のある未亡人を選んでるのも、好感が持てる。身分の低い未亡人の方も、超特大玉の輿なんだからまさにwinwinですな。
、、でも、やっぱ羨ましくて腹立つから終わりっ!
あ、なにげに今回でこのメモブログ
祝3周年だった。
参考
https://alpha-katekyo.jp/tips/tips220/
https://japan-history10.com/2022/12/10/genealogy-of-ieyasus-children/