キャリー・ハミルトンの論文に反論する――追記
先日の記事ではハミルトンの論文における一つの問題箇所を検証したが、それに続く「ミルハ・ソレイユ・ロス――セックスワークと種の独自性」という節(pp.123-5)を読み返してみると、こちらも甚だ脆弱な議論を行なっていた。それほど反論の手間もかからないので、簡単に問題点をまとめておきたい。
反論になっていない
この節では、アダムズらを批判するミルハ・ソレイユ・ロスという当事者の言葉が引用されている。
ロスはアダムズとFAR〔動物の権利を支持するフェミニストの会〕を批判しつつ、こう主張する。「[……]彼女らはいわゆる私たちの身体の利用・客体化・商品化を理論化していますが、私たちはまさにその身体なのです。そして私たちは自分の身に起きていること、また性的取引で起きていることについて、彼女らとは大きく異なる認識を持っています」(Lubiw, 2002)。
(Hamilton, 2016, p.124)
これは一人の当事者の意見として尊重されるべきであろうが、当事者の「代表意見」でないことは考えなければならない。アンドレア・ハインツ(Andrea Heinz)のように、アニマルライツに賛同し、反性売買の立場をとっている元当事者であれば、ロスとは全く異なる意見を持っているだろう。
そしてあいにく、ハミルトンの論文では、ロスが言うところの「大きく異なる認識」がどのようなものなのかが掘り下げられておらず、ただ彼女が反性売買・反ポルノグラフィ寄りのアニマルライツに不満を持っているということが述べられているのみである。これでは反論にならない。
ロスの認識が(トランス女性だけでなくシス女性も含む)「セックスワーカー」の共通経験を語っており、それがアダムズの理論と決定的に矛盾することを示せて初めて、アダムズの主張が間違っていることを証明できるが、この論文はその手続きを踏んでいない。一人の当事者がアダムズに反対しているのでアダムズは間違っている、などということはできない。
主観と構造は違う
ロスは自身の「認識」について語っているが、アダムズは当事者の認識を超えた構造を問題にしている。具体的には前回の記事でも書いた通り、客体化された女性身体のイメージが性産業によって量産され、それが食肉産業のイメージ戦略にも影響を与え、結果として女性の消費と動物の消費が結びつけられている、という問題である。これは当事者の認識とは無関係に生じる問題である。自分が客体化されているという認識がないまま人が客体化されることはいくらでもありうる。
当事者の主観は絶対ではない
上の問題は、当事者の言葉をただ無批判に信じることの危うさをも示している。サンドラ・ハーディングを引用しつつ、シーラ・ジェフリーズは述べる。
サンドラ・ハーディングは、女性たちがみずからの経験について語ることの全てが「その認知に係る主張に信頼できる根拠」を与えるわけではないと説明する。
❝ 女性たちは(フェミニストも含め)あらゆることを口にする――女性蔑視的な発言もすれば非論理的な議論も弄し、一部しか分かっていない状況について誤解を招くことも言う。科学的に根拠薄弱な人種差別発言、階級バイアスのある発言、異性愛中心的な発言もする。[Harding, 1991, p.123] ❞
女性が語ることをただ信じるという姿勢が問題なのは、フェミニストになる以前の女性たちの経験解釈は社会関係の大きな影響を受けるからである。
❝ 女性たちは結婚生活で生じる性暴力をレイプと定義できるようになる必要があった。女性たちはその攻撃を、レイプに該当するものとしてではなく、妻が予期すべき異性愛セックスの一コマとしてのみ経験していた。[ibid.] ❞
夫婦間レイプについていえることは性売買についてもいえると思われる。女性たちは自身が被る虐待を過小評価もしくは否定する傾向がある……。立場理論の主唱者たちはみな、フェミニストの立場が単にあらゆる女性たちの語りを指すのではなく、政治闘争から形づくられるそれを指すと考える。……フェミニストは性売買の真実に関し相異なる語りと出会った時、ただこの領域から身を引くのではなく、批判的な政治的知性を働かせなくてはならない(Jeffreys, 1996)。
(シーラ・ジェフリーズ著/井上太一訳『性売買の思想』緑風出版、2025年、pp.229-30.)
こうしたことを考えれば、一部の当事者が性売買を「セックスワーク」と認識していることは事実として受け止めながらも、それがどのような社会条件のもとで形作られた主観なのかは慎重に検討する必要がある。ハミルトンも含め、「セックスワーク」擁護論者の議論にはそのような構造分析がほとんど見られない。
労働であるから何なのか
ハミルトンの主張は、実のところロスとはほとんど無関係である。それはジェイソン・フライバルとマリ・マレーの議論をもとに語られている。
動物労働と人間のセックスワークに共通する点は、遂行される労働カテゴリーが根本的に類似しているということではなく、むしろ労働そのものが頻繁に否定されていることにある。労働を労働と定義することは、搾取の認識をさまたげるものではない。それどころか……それは搾取を認識するための前提条件である。
(Hamilton, 2016, p.125)
これもまた、アダムズの議論とは関係なく、「セックスワーク」の正当性を示すものでもない。上述の通り、アダムズは性売買が労働であるか否かという議論はしていない。「遂行される労働カテゴリーが根本的に類似している」などとも言っていない。アダムズが論じているのは性産業や性売買における女性の客体化である。もしもこの主張をアダムズへの反論として示すのであれば、「労働する者は客体化されえない」という議論を行なう必要があるが、ハミルトンはそれをしていない。
そして奇しくもハミルトン自身が述べているように、「セックスワーク」が労働であったところで、それは搾取の存在を否定するものではない。よって、ハミルトンの主張を認め、「セックスワーク」を労働と位置づけたところで、「セックスワーク」の現場において女性が搾取され客体化されているという議論は成り立つ。アダムスの議論はいささかも崩れない。なお、アダムズが依拠しているシーラ・ジェフリーズでさえも、「性売買が『労働』でない」と論じているのではなく、それが「正当な労働とみなされるべきではない」と論じている(ジェフリーズ、2025、p.234. 強調は引用者)。
そして蛇足ながら、「労働と認めることが搾取を認識するための前提条件である」というのは極めて疑わしい主張である。人身取引や性暴力は労働と認めなくとも搾取と認識できる。DV男が交際相手に暴力を振るって支配欲の満足やコンプレックスの解消という目的を満たすのも搾取に違いないが、それは交際相手の労働ではない。労働を伴わない搾取はいくらでも考えられる。
ハミルトンの議論が成功していないこと、というより完全に破綻していることは、これで示せたと思われる。雑誌『シモーヌ』の編纂者たちが何故にこの論文に翻訳の価値があると判断したのかはわからない。が、いずれにせよ、性売買の構造批判が不条理にも「セックスワーカー差別」と称される今日において、こうした議論が影響力を有し、ビーガンのコミュニティがおかしな方向へ流されることだけは起きてほしくないと願う。