◇すっかり忘れて…
朝の天気予報では、日中は36度まで上がる予報でした。
その日は朝早くに出て、ちょうど昼過ぎに帰る用事がありました。
盲導犬シエルのことを考えると、朝はまだ大丈夫でも、帰りはかなり厳しい暑さです。
シエルには留守番をしてもらうことにしました。
シエルのいない道は、いつもよりずいぶん遠く感じました。
何とかバスを乗り継いで、目的地まで行けました。
着いたー。
すっかり疲れを忘れていました。
用事が終わり、今度は帰りです。
帰りのバスは、以前に一度だけシエルと帰ったことがありました。
そのときは、降りた停留所の位置が、私が想像していた場所と違っていて、思っていたより離れていました。
結局、近くの人に助けてもらうことになりました。
今回は、2回目の挑戦です。
バスを降りて、進行方向に20メートルほど進むと、右に「ピヨピヨ」と音のする横断歩道に出るはず。 今度はきっとうまくいくはずです。
さて、2回目の挑戦の始まりです。
バス停を降りて、進行方向に向かって歩き始めました。
点字ブロックがあります。
よしよし。この点字ブロックをたどっていけば、目的の交差点に行けるぞ。
しかし、なかなか私が思っている「ピヨピヨの横断歩道」に到着しません。
その音を耳で探すのですが、「ピヨピヨ」が聞こえてきません。
しばらく歩いて、立ち止まり、辺りを見回しました。
たまたま通りがかった人に、 「千日前通りは、こっちの方向ですか?」
と尋ねると、 「はい、そうです」 と教えてくれました。
私はまた歩き始めました。
コツコツコツっ。
しかし、いくらなんでも遠すぎます。
また誰かの気配を感じて、尋ねてみました。
「この先に千日前通りはありますか?」
「はい、ありますよ。でも、だいぶ遠いですよ」 と教えてくれました。
「何でぇ?」 訳がわからなくなり、途方に暮れました。
でも、何とかしなきゃ。
もう一度、私が思っている場所のイメージをしつこく伝えてみました。
すると、 「はい、この道ですが、まだまだそこへは、バス停で言うと2つか3つ離れてますよ」
「えぇー……」
また、愕然となりました。
どうやら、私が降りたバス停は、目的の停留所の3つほど手前だったようです。
歩いては、とても行けそうにない距離です。
何しろ、気温は36度近い暑さ。
もう一度引き返して、バスに乗ることにしました。
すると、その女性が親切にバス停まで私を誘導してくれました。
歩きながら、 「いつもは盲導犬を連れているんですが、今日はあまりの暑さで、留守番をしてもらってるんです」 と伝えました。
すると、 「えーっ、そんな優しい気遣いをしてくれる人があるんですかぁ。ありがとうございます」 と、お礼を言われました。
私は一瞬、意味がわからず、 「えっ?」 となりました。
すぐに意味がわかり、 「ワンちゃん、お好きなんですかぁ?」 と尋ねると、
「はい、大好きです」 と教えてくれました。
その方の優しさがシエルと重なって、胸が熱くなりました。
バス停まで戻り、 「暑いですから、私はもう大丈夫ですから」 と、お別れしようとしました。
でも、その方は、
「もうすぐ来ますから、待ってますよ」 と、言ってくださいました。
私が汗を拭うのを見て、 「暑いから大変ですねぇ」 と言ってくれました。
「さっき、必死で道を探しているときは、すっかり暑さを忘れていたんですが……」 と笑いました。 やがて、バスが到着しました。
「暑い中、本当にありがとうございました。助かりました」 深々と頭を下げました。
その方は、親切にバスの入り口まで案内してくださり、私は無事に乗り込むことができました。
席を探して座ったとき、運転手さんと、外にいる女性との会話が聞こえてきました。
「今、乗られた方は○○まで行かれますから、そこで下ろしてあげてくださーい」
あっ。
私は一気にこみ上げてくる涙を抑えながら、前の方に向かって、
「ありがとうございましたぁー!」 と言いました。
周りにいる乗客のことなど、すっかり忘れて、大きな声を出していました。