書けなかった日のこと
書いても、書いても、書けない。そんな日が、かつてありました。正確には、今でも「書けない日」はあるのですが、あの時の感覚とは違います。
まだ初段か二段くらいだった頃のことです。昇段試験の課題で、条幅を書いていました。頭の中では、「ここからこう入って、ここで筆を返して……」と、書く線を思い描いています。けれど、紙に現れたものを見ると、「違う。」もう一度書く。「違う。」また書く。「やっぱり違う。」そんなことを繰り返していました。
そのとき、不思議な感覚がありました。自分が動かしている筆先と紙との間に、薄いジェルのようなものが挟まっているような感じ。頭の中で動かした筆の動きが、そのまま紙に伝わらないのです。筆は自分の思うところへ動かしているはずなのに、紙に残った線は、私が思っていたものとは少し違っている。
その「少し」が、どうしても埋まりませんでした。書いても、書いても、その感覚がなくならない。しまいには、何が違うのかさえ分からなくなってきました。もちろん、当時はまだ経験が浅く、技術的にできていなかったこともたくさんあったのでしょう。でも、今振り返ると、あの日の「書けない」は、それだけではなかったように思います。頭の中にある「こう書きたい」というものと、実際に自分の身体から出てくる線との間に、距離があったのです。
そして、その距離を埋めようとして、何枚も何枚も書きました。書けば少しずつ近づくと思っていました。けれど、あのときの私は、自分の中にあるものを、まだ自分の線にできなかった。あれは目が育っていく途中だったのだと、今改めて思います。
書いたものを見て「違う」と思えることも、必要なことだったのかもしれません。あの日、筆と紙の間にあった、薄いジェルのようなもの。今でもときどきその感覚を思い出します。「違う、違う」と書き続けたあの日のことを、今では少し懐かしく思うのです。