馬の登場で東日本に起きた交通革命~馬と前方後円墳を訪ねる旅~②
飯田市全体が「古墳の博物館」といわれる理由
実は、今回の旅で、群馬県渋川市の金井遺跡群を訪ね、そのあと群馬県立歴史博物館の企画展「ヨロイを着た古墳人がみた世界」を見た後、向かったのは長野県飯田市だった。高崎から中央道で佐久平まで、そのあと佐久市望月や和田峠を抜け、諏訪で一泊。翌日に飯田市に入り、高岡第1号古墳や上溝天神塚古墳、おかん塚古墳など、いずれも国指定史跡の前方後円墳を訪れ、横穴式石室の内部にも足を踏み入れた。
前回も記したように飯田の古墳は、その時代の最先端の古墳築造技術をいち早く取り入れた地域で、飯田市がパンフレットで「飯田は古墳の博物館」を標榜するように、市内の古墳を何カ所か訪れるだけで、古墳の築造技術の変遷をたどることもできる。例えば、「おかん塚古墳」(6世紀後半の築造)の横穴式石室は、奥の玄室にはいると高さ5メートル以上の巨大な空間になっていて、その天井を覆う巨石の大きさとその築造技術には圧倒された。まさに蘇我馬子の墓と伝わる飛鳥の石舞台古墳を連想させた。
(おかん塚古墳の石室内部)
ところで、飯田市に前方後円墳など古墳時代の遺跡が多いという事実を、長野県佐久出身である筆者自身がまったく知らなかった。いまはどうか知らないが、長野県は山などで隔てられ、地域は北信、中信、南信、東信と分かれるが、その間の交流はほとんどないのが実態だった。長野県の教師の組織「信濃教育会」(日教組に代わる独自教職員組合)は、かつて郷土史について独自の教科書をつくって学校で教えていたが、今はどうなっているのだろうか?
奈良時代の役所「伊那郡衙」が置かれた地
なぜ、多くの前方後円墳(現存18基)が長野県南部の飯田市に集中しているのだろうか?それは、その当時、この飯田が交通の要衝であり、ヤマト政権が内陸交通の整備を行う中で、軍事的な役割と交通・輸送機能の発展のために馬の生産を本格的に開始し、その馬の生産管理拠点を飯田に置いたためだ。のちに奈良時代の役所「伊那郡衙」(いなぐんが)が置かれ、その倉庫群(正倉 しょうそう)の跡などが「恒川(ごんが)官衙遺跡」として国の史跡に指定されている。
伊那郡衙は、古代の主要道「東山道」の通過地点にあり、その東山道の難所として知られる、恵那山(2191m)の北側の神坂(みさか)峠(1569m)を抜けた先にあった。つまり、神坂峠は、東国への入口にあたる最後の難所であり、伊那郡衙は、都からみれば神坂峠を越えて最初にある東国の役所(官衙)、東国からみれば平城京・平安京に通じる神坂峠に入る手前の関所・通過地点ということになる。
<「国指定史跡 恒川官衙遺跡 伊那谷から日本の国づくりを支えた役所」飯田市教委員会パンフレット>
古代が蘇る?リニア中央新幹線の駅建設で活気
このように古代の飯田は東西の内陸交通路を結ぶ重要な結節点だった。飯田の人々は、飯田市が最も繁栄し、他の地域とも密に繋がっていたのは古墳時代だけで、今は逆に、まるで「陸の孤島」のようだと卑下する。ところが、実はそんなことはない。その飯田が今、リニア中央新幹線の建設で脚光を浴びている。リニア中央新幹線は南アルプスと中央アルプスを貫く二つのトンネルの途中、伊那谷で地上に姿を現し、天竜川にかかる橋を通過する。そしてその天竜川の西岸、飯田市座光寺地区(恒川官衙遺跡がある場所)に、長野県内の唯一の停車駅としてリニア駅の建設工事が進められている。完成時期は見通せないが、完成の暁には東京までは40分、名古屋までは25分という完全通勤圏内が実現する。長野県の「見捨てられた僻地」が1500年の時を経て、いままさに脚光を浴びているのだ。
そして、そのリニア駅の建設工事にともない、大規模に進められているのが、駅予定地周辺の埋蔵文化財調査である。この調査で、古墳時代の住居跡からL字型の炉の跡、つまりオンドル式の排煙管がある遺構がみつかり、この地域に渡来系の人々が暮らしていたことがわかる。また飯田市内の古墳の横穴式石室のいくつかは、明らかに朝鮮半島の様式で作られたものが見つかっている。つまり古代の飯田には、渡来系の人々が馬を専門的に扱う技術者集団として暮らし、前方後円墳のような大きな墓に埋葬されるほどの実力、地域のリーダー的な役割を果たしていたことが分かる。これ以後も、発掘調査でどんな成果、発見が出てくるか楽しみだ。
馬の全身埋葬簿が大量にみつかる
ところで、群馬渋川市の金井遺跡群で見つかった「ヨロイを着た古墳人」は、骨のストロンチウム解析などからこの飯田市周辺に以前、暮らしていて、その後、群馬に移住した渡来系の人物だという説がある(右島和夫 群馬県立歴史博物館前館長・顧問)。つまり、馬の生産を通して、飯田と上野(かみつけ)の国が深くつながり、馬の交易や馬の移動が激しくおこなわれていたものと推定できる。
そして、飯田市の古墳の周辺には馬の埋葬遺構が多数見つかっている。飯田市教育委員会(埋蔵文化財保護担当)の春日宇光(うこう)主査によると、飯田市の古墳周辺から全部で32体の馬の全身骨格が見つかっているが、特定の地域でこれだけまとまった形で馬の墓が出土するのは飯田市以外に、例がないという。中には、市内松尾の茶柄山古墳群のように馬の埋葬土坑が一列に7基も並んでいる例もあった。
そしてこれらの馬はどれも解体されたり傷つけられたりした痕跡がなく、轡や剣菱型杏葉と呼ばれる飾りなど正装の馬具とともに全身の骨が見つかっている例が多いという。またその年齢は馬の臼歯などの発達具合から3歳から6歳の比較的若い馬が多いことが分かっている。つまり、これらのことから、この地域の有力者の死とともに馬も殺されて殉葬され、明らかに死後にもこの馬に乗ることを想定し、馬の全身を傷つけることなく馬具とともにそのまま埋葬したためだと考えられている。
(馬の埋葬土坑)
馬は死後の道行きの伴をする伴侶でもあった!?
中国では馬の遺構は、秦の始皇帝陵の馬車坑に見られるように、皇帝が馬車に乗り移動するための手段として、現世での生活を死後にも再現するための道具だった。ところが春日氏によると、日本人には来世は別の世界にあるという観念があり、来世に行くためには船や馬など乗り物に乗って別の世界にまで旅をする必要があると考えていたという。沖縄の死者の魂が還るとされるニライカナイは東方の海のかなた、まさに船に乗って渡る別世界であり、日本神話の「黄泉の国」や「根の国」の発想と重なる。
つまり古墳時代の飯田の人々にとって馬は日常生活の重要なパートナーであると同時に死後の道行きも伴にする大切な伴侶だったのである。
ところで考古分子生物学が専門の金沢大学の覚張隆史(がくはりたかし)准教授によると、これらの馬の骨のストロンチウム解析から、すべての馬が飯田で生まれ育ったわけではなく、出身地にはばらつきがあることが分かっている。そのため飯田は、各地から集められた馬の集積地である可能性が高く、あるいは調教や選別のために戦略的に馬が飯田に集められたのかもしれない。
また春日氏によると、飯田の古墳に収められた副葬品のうち、甲冑(かっちゅう)の多さが目を引くという。堅牢(けんろう)な鉄製のよろい・かぶとはヤマト王権が直営の工房で生産した最新式の武具で、ごく限られた権力者のみに与えられた品だそうで、その意味でも、飯田の古墳の埋葬者の地位の高さが分かる。しかし、それらの埋葬者が収められた石室の副葬品からは馬具はいっさい見つかっていないという。その理由はわからないが、他の地域の古墳や朝鮮半島の古墳からは馬具が副葬品として見つかることは多く、この違いがおおきな特徴でもある。
そうした甲冑や装飾性の高い刀剣が見つかった遺跡に飯田上郷別府にあった前方後円墳、溝口の塚古墳がある。この円筒埴輪の一つから馬の姿を描いた線刻画がみつかり、この地域の人々の馬への思い入れが強いことがわかった。埴輪に描かれた動物の線刻画ではシカが最も多く、馬を描いたと思われるものは他には1件しか見つかってないという。
また同じく覚張隆史准教授による研究から、溝口の塚古墳の埋葬者の男性の頭部の骨から見つかった三半規管のゲノムを解析したところ、韓国金海(キメ)市の大成洞(テソンドン)古墳から発掘された女性の遺伝情報データと大きな確率で一致することが判明し、飯田の埋葬者はこの大成洞古墳の女性の子孫である可能性が高いとされる。朝鮮半島との人の交流を伺わせる興味深い話だが、この論文の出典は確認できなかった。
前方後円墳がある場所は古代の繁栄の中心地
話があちこちに飛び、冗長となってしまったが、以上のことを要約すると、日本列島への馬の登場で当時の人々の世界観は大きく変わった。移動革命が起き、内陸交通路が発達し「古東山道」とよばれる東国の地域があらたにヤマト王権の勢力下に入り、東日本との人、モノの交流が盛んになった。馬の大量生産を戦略的に取り入れるため、各地に大規模な馬の飼育繁殖地を作ったが、その技術を担ったのは渡来系の人々だった。そしてそうした馬の生産と貢納という功績によって馬の生産者は地域の有力リーダーとなり、ヤマト政権から高価な甲冑を特別に下賜される存在となり、そうした実力者の死後を象徴するように飯田や群馬といった馬の生産地には大規模な石室をもつ前方後円墳が次々に築造されることになった。古墳時代の交通・流通の中心は今とは全く違っていて、思わぬような地域がその時代に繁栄を極めていたということは興味深い。それとともに、日本人にはその死生観にともなって馬に対する特別な観念があるらしいことを、この旅で学ぶことができた。馬と人間の歴史を洋の東西で広く探求してみたくなった。
(上溝天神塚古墳の石室内部)
(塚原二子塚古墳 石室内部は未発掘)