カウリスマキ監督『希望のかなた』
「ダメよ。私はメキシコに行って
日本酒を飲んで、フラを踊るんだから」
54時限目◎映画
堀間ロクなな
かねて疑問なのだ。ランニング・ブームが言われて久しく、連日の皇居周辺から、全国各地で開かれる大小のマラソン大会まで、老いも若きもこぞって走ることで自由な空気を味わっているらしい。が、ちょっと待ってほしい。本当の自由を味わいたいなら、好きなときに、好きな場所で、好きなだけ走ればいいではないか。大勢といっしょに定められた規則のもとで走るのは、「迷える小羊」ではなくとも「飼われる羊」の姿じゃなかろうか。
スポーツだけではない。自由な意思にもとづくつもりで、毎日会社の仕事に往復しているサラリーマンや、テレビで紹介された店に馳せ参じる主婦や、日がなスマホを手放さないネット依存症の若者や……、実のところ、今日の管理社会にあってはたいていが自覚のないままに「飼われる羊」なのかもしれない。むろん、かく言うわたしもそのひとりである、と気づかせてくれるのが、フィンランドのアキ・カウリスマキ監督の映画なのだ。
最新作『希望のかなた』(2017年)では、主人公(サカリ・クオスマネン)がセールスマンをやめ、妻と別れて、かねて念願だったレストランのオーナーに転じる。そこへ、シリア難民で不法滞在を余儀なくされた青年(シェルワン・ハジ)が現れたことから幕を開けるドタバタの人間喜劇が、例によって脱力系のローテクニックで紡がれていく。レストランの売上のためにスシを出すアイディアを主人公が思いつき、付け焼刃でレシピを求めに書店へ赴くと、そこに新潮文庫の池波正太郎『真田太平記』や藤沢周平『孤剣』が並んでいたり、そのあげく、突拍子もないスシ(ネタの上に山盛りのサビが!)がもてなされたりするのも、日本びいきで知られる監督らしい。
たまたま青年を匿ったことで、レストランで働く者ばかりでなく、やがてヘルシンキの港町の人びとが人間としてのあり方に目覚め、もはや「飼われる羊」を脱したかれらは次第に神々しささえ帯びていく。そこに声高な主張がありはしないし、おいそれと難民と向き合う世間の状況が変化するわけでもない。執拗につけ狙うスキンヘッドのネオ・ナチにより、青年はナイフで腹部を刺されても、その負傷を静かな笑みで受け止めてタバコを吹かすのがラストシーンといった具合なのだ。
カウリスマキ監督はこの作品をめぐり、「私はとても謙虚なので、観客ではなくて、世界を変えたかったんだよ」とインタビュアーを煙に巻いたあとで、「だけど正直に言えば、世の中の3人ぐらいにはこの映画を見せて、みんな同じ人間だと分かってもらいたかった。今日は “ 彼 ” や “ 彼女 ” が難民だけど、明日はあなたが難民になるのかもしれないんだ」と語っている。
日本は少子高齢化のもとで外国人労働者の門戸拡大に踏み切った立場から、いつまでも難民の受け入れについてもこれまでどおり頬かむりしてはいられまい。そのときに、あたかも東京マラソンで国内外の出場ランナーを管理するかのようなやり方だけでは立ち行かないだろう。おたがいの等身大の交流のために、まずはわれわれが「飼われる羊」に安住することを止め、みずからの自由な足を踏み出すことがスタートラインではないか。この映画はそう問いかけている。
カウリスマキ作品にはこのひとが顔を見せなければ、という無表情の女優カティ・オウティネンが洋装店の主人として一場面だけ登場する。主人公からレストラン開業のために協力を求められたのに対して、ニコリともしないでこう答えるのだ。「ダメよ。私はメキシコに行って、日本酒を飲んで、フラを踊るんだから」――。