岡本太郎の言葉
芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。それが根本原則だ。
人に理解されたり、よろこばれようなんて思うな。むしろ認められないことを前提として、自分を猛烈につき出すんだ。
焦るな。人のために美しいものをつくるというよりも、生命のしるしを、自分に確かめる。
ぼくは人に好かれる楽しい絵を描こうとは思わない。それよりも猛烈に叫びたい。絵のなかで。
自分を大事にして、かばおう、うまく行こう、傷つきたくない、そう思うから不安になるんだよ。あるがままの自分以外のものになりたがったりね。
芸術というのは認められるとか、売れるとか、そんなことはどうでもいいんだよ。無条件で、自分ひとりで、宇宙にひらけばいいんだ。
宇宙的ではなく宇宙なんだ。
芸術に賭けようとするくらいの人間なら、自己愛と自己嫌悪は猛烈に渦巻いている筈だ。それを殺すことはない。もっともっと激しくのたうち、からみ合わせる。その相克は人間の究極のドラマだ。しかし、乗り越える方法はある。乗り越えなければならない。それが芸術なんだ。
認めさせたい、と激しく思う。と同時に認めさせたくない、させないという意志が猛烈に働く。
今、この瞬間、全く無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。そうふっきれたとき、ひとは意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚える筈だ。
すぐれた芸術には、飛躍がある。創造だから。かならず見るひとに一種の緊張感を要求する。
自然の樹木がわれを忘れたように伸びひろがっている、凝滞ない美しさ。そんな、そのままの顔。自分の顔なんか忘れているような、ふくらんだ表情こそが素晴らしい。
意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるな。きみはほんとうは激しく生きたいんだよ。だから、“死”が目の前に迫ってくる。それはとても正常なことだ。
自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。なければなおいい、今まで世の中で能力とか才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄みを見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。
ぼくは忘れるということを、素晴らしいことだと思っている。忘れるからこそ、つねに新鮮でいられるんだ。
死ぬと大騒ぎするけれど、死ぬことと生きることは、ぼくにいわせればおなじことなんだ。
生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ。
何のためにこの世に来たのか。そして生きつづけているのか。ほんとうを言えば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。
ズバリ答えよう。金と名誉を捨てたら人間の“生命”がのこるんだ。つまり、人間のほんとうの存在だけが生きる。金と名誉を拒否したところに、人間のほんとうの出発点がある。
食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。
一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには光栄だと思える。
* * *
『眼 美しく怒れ』
岡本太郎
岡本敏子(編)
ーいま、なぜこの「眼」をー
岡本敏子
「岡本太郎が生きていたら、怒るだろうなあと思うことがよくある。
(略)
勿論その時々の現象に対応しているのだが、決して時事問題ではなく、いつも人間としての本質論であって、宇宙観、哲学に直結するのだ。
彼は見事に透徹した眼と情熱を持っていた。」
ー眼 はじめにー
岡本太郎
「世界をこの眼で見ぬきたい。
眼に触れ、手にさわる、すべてに猛烈に働きかけ、体当たりする。ひろく、積極的な人間像を自分自身につかむために。純粋な衝動である。
そんな情熱が激しく噴出するとき、それは憤りの相を呈する。」