完璧じゃないほうが、安心する
これは数年前の川崎の多摩川河川敷から撮った写真
雲は一つとして同じものはないし、
それは再現不可能
もう二度と出会えないからこそ
その瞬間を残したいと思い、
カメラ(映写機や写真機)は
生まれたのだと思う
いまや、スマホ一つでいつでも
当たり前にその瞬間を切り取れる時代
「今」というかけがえのない瞬間を
肉眼でみることを差し置いて
残しておきたいと思う大切な瞬間って
そんなにあるのだろうか・・・
☆
最近、AIでつくられた写真や動画を見ていて、
「きれいだな」と思うのに、
なぜか心が動かない。
ときには、少し怖ささえ感じる。
そんなことはありませんか?
光もきれい。
構図も完璧。
人の表情も自然。
なのに、どこか違う。
私は、その違和感のひとつに「揺らぎ」があるのではないかと思っています。
人がつくったものには、少しの歪みや、迷い、偶然があります。
少し不揃いな器。
震える声。
ぶれた写真。
そこには、「誰かが、ここにいた」という気配がある。
自然もそうです。
木の枝は左右対称ではない。
葉っぱも一枚一枚違う。
風も、毎日少しずつ違う。
完璧ではないからこそ、私たちはそこに生命を感じるのかもしれません。
でも、面白いことに私たちは自然の揺らぎには安心するのに、自分自身の揺らぎは怖がります。
身体が変わる。
老いていく。
病気になる。
気持ちが変わる。
「変わらないでほしい」と思ってしまう。
でも、変わらないものは、生きていない。
変わるからこそ、生命なんですよね。
だから私は、「整える」ということを、「揺らがない自分になること」だとは思っていません。
今日は疲れている。
今は少し敏感になっている。
季節が変わって、身体の感じも変わってきた。
そんな小さな変化に気づいて、「今の私は、どうなっている?」と、自分に聞いてあげること。
そして、そのときの自分に合わせて、食べるものや休み方、過ごし方を選び直す。
それもまた、「整える」ということだと思っています。
AIが、正解らしい答えをいくらでも出せる時代。
だからこそ、「私は、今どう感じている?」という問いが、これからますます大切になるのかもしれません。
完璧じゃなくていい。
少しアンバランスでもいい。
揺らいでもいい。
変わってもいい。
その揺らぎの中に、「私が生きてきた時間」があるから。
だから私は、アーユルヴェーダを「自分を完璧に整える方法」として伝えたくありません。
揺らぎをなくすのではなく、揺らいでいる自分に気づき、その時々の自分に合うように、暮らしを選び直していく。
そのための智慧として、アーユルヴェーダを伝えたい。
誰かの正解に自分を合わせるのではなく、自分の感覚を、もう一度信じる。
それが、私にとっての「日本人のためのアーユルヴェーダ」です。
AIがどれだけ完璧になっても、私は、人間の不器用さを大切にしたい。
迷うことも。
揺らぐことも。
変わっていくことも。
それも含めて、私たちは生きているから。
「私は、今、どう感じている?」
その小さな問いから、もう一度、自分のところへ帰ってくる。
そんなアーユルヴェーダを、私は日本の季節や風土の中で伝えていきたいと思っています。