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一号館一○一教室

ボロディン作曲『イーゴリ公』

2026.08.23 06:32

風の翼に乗って
飛んでいけ 祖国の歌よ


830時限目◎音楽



堀間ロクなな


 クラシック音楽史上の天才たちが最後の到達点ともいうべき作品を完成できなかった事例は、人間に寿命がある以上、いかんともしがたい成り行きなのだろう。モーツァルトの『レクイエム』、ブルックナーの『交響曲第9番』、マーラーの『交響曲第10番』、プッチーニの『トゥーランドット』、ベルクの『ルル』……に思いを致すと、もしかれらにあと1年とまでいわず1か月の余命が許されていたなら、人類はさらに貴重な芸術を手に入れられたのに、との念を禁じえない。



 しかし、ボロディンの『イーゴリ公』に関してはいささか事情を異にしそうだ。やはり作曲家の死によって未完に終わったとはいえ、かれがこのオペラに着手してから実に20年もの歳月があったのだから。にもかかわらず、ついにまっとうできなかった最大の理由は、あまりにも才能に恵まれすぎていたことにある。



 アレクサンドル・ボロディンは、1833年にロシアのサンクトペテルブルクで貴族の庶子として生まれた。早くから音楽の天分を発揮したが、その一方で化学の分野でも優秀な成績を収め、サンクトペテルブルクの医科大学を卒業後は陸軍病院に勤務するかたわら、イタリアのピサ大学やドイツのハイデルベルク大学でも研鑽を積んで、有機化学の研究者として国際的に知られる存在となり、やがて医科大学の助教授・教授へと進んでいった。その間、「日曜作曲家」としてふたつの交響曲などを発表して高い評価を受け、国民音楽の新たな地平を開く「ロシア五人組」のひとりと目されたものの新作は停滞しがちで、業を煮やした仲間が1869年の春に持ち込んだのが『イーゴリ公』の台本だった。



 中世ロシアの叙事詩にもとづくその台本は、ボロディンの大いに気に入るところとなってさっそく作曲に取りかかった。だが、相変わらず医科大学での研究活動に追われるうえに、教育者として女子学生のために「産科医学課程」を創設するといった煩雑な業務も手掛けて、作曲の筆のほうは遅々として運ばなかった。そんな長年にわたる多忙をきわめた生活が祟ったのだろう、1885年、52歳のときに重い心臓病の徴候を認めたかれは、しばらく放っておいた台本を引っ張りだすと、猛然と五線紙に立ち向かいはじめたのである。



 12世紀のロシアの大平原。プティーヴリの城主イーゴリ公は遊牧民ポーロヴェツの侵攻を防ぐため、妃ヤロスラーヴナとその弟のガーリツキイ公に後事を託して、みずから従士団を率いて出陣する。しかし、勇猛果敢な敵軍の攻撃によって一敗地にまみれる一方で、プティーヴリ城ではガーリツキイ公が酒と女にウツツを抜かしながらわがもの顔で人民を支配するという、「戦争と平和」のきわどい光景が描かれる。その音楽は、ポーロヴェツの陣営で虜囚の身となったイーゴリ公の場面に至って最高潮に達するのだ。首領のコンチャーク汗はイーゴリ公をあくまで客人として丁重にもてなし、ふたりの前で盛大な祭が繰り広げられて、ポーロヴェツの男たちが踊りまわり、カスピ海から連れてこられた美しい奴隷女たちがこんなふうに歌いあげる……。



 風の翼に乗って

 故郷まで飛んでいけ 祖国の歌よ


 そこではお前は自由

 飛んでいけ 祖国の歌よ



 ラプソディックな叙情味にあふれたこの音楽は「だったん人の踊り」として、オペラから独立してオーケストラのコンサートでもしばしば演奏されるとおり、ボロディンが書いた楽曲のなかで最もよく知られたものだろう。わたしは、死期の迫りつつあるのを悟った作曲家が、奴隷女たちの望郷の歌に託して、みずからのかなわぬ自由への希求を楽譜にしたためたように思えてならない。結局、自分自身の手で書き上げることができたのはこの第2幕までだったという。



 1887年2月、ボロディンは医科大学で謝肉祭における恒例の仮装舞踏会の準備委員もつとめ、赤いルパシカの民族衣装をまとってワルツを踊って、直後に心臓動脈瘤が破裂して息を引き取る。53歳だった。この悲劇とも喜劇ともつかぬ最期は、あまりにも多岐にわたる才能の持ち主の宿命だったのかもしれない。中途で残された『イーゴリ公』は、仲間のリムスキー=コルサコフとグラズノフがスケッチをもとに第3幕、第4幕を完成させて、1890年10月23日に帝室マリインスキー劇場で初演された。



  【追記】

 わたしがこの作品で親しんでいるのは、ソ連時代に制作されたロマン・ティホミーロフ監督の映画版『イーゴリ公』(1969年)です。歌劇場では実現不可能な、南ロシアのステップを舞台とした歴史絵巻に圧倒されます。