vol.215「江の悪女説」について
大河ドラマ「江」を少し観たが、少しで辞めた。理由は書かない。世の中の評判とは概ね正しいものだ、という点では勉強になったかもしれない。
しかし、江にまつわる「悪女」のイメージは、真偽が定かでない割に、あまりに定着していて可哀想なので、調べてみることにした。
なお、江の生い立ちについては以前「vol.10『徳川秀忠と妻お江』を読んで」にて記したので割愛する。
● 秀忠の嫁になってからの江
伏見城内の徳川屋敷で始まった婚姻生活では子宝に恵まれた。慶長2年(1597)に長女「千姫」を出産。慶長4年(1599)に江戸城にて次女「珠姫」を出産。慶長六年(1601)に三女「勝姫」を出産した。
この間、秀吉が世を去り、義父・徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して、それに伴って夫・秀忠も出世したが、それは政略結婚における娘達との別れを意味した。
勝姫を出産した年には、珠姫が僅か三歳で前田家に嫁いだ(その後珠姫とは二度と会えなかった)。
慶長7年(1602)、故秀吉と義父・家康との生前の約束により、千姫が姉・茶々の子・豊臣秀頼に嫁ぐこととなり、妊娠していた江はこれに同行し、大坂に赴いた(ちなみにこの時が浅井三姉妹の一堂に会した最後の時となった)。
直後に産気づいた江は伏見城にて四女を出産。その娘は共に大坂に来ていた、子のない次姉・初に請われてその養女となり、姉と同名の「初姫」と名付けられた。
なかなか世継ぎとなる男児を産めず、女児ばかり産んだことを度々義父・家康を失望させたが、慶長9年(1604)、ついに世継ぎとなる嫡男「竹千代(家光)」を出産し、翌年には秀忠が征夷大将軍に就任して、徳川世襲体制が確立した。
ついで慶長11年(1606)、次男「国千代(忠長)」を、翌慶長12年(1607)には、末娘「和子」を出産した。
長女が豊臣家、次女が百万石の前田家、三女が越前松平家、四女が京極家、五女が皇室、と名立たる名家に嫁ぎ、嫡男は征夷大将軍後継者と来て、江はまさしく「天下のお袋様」と云える立場に立ったが、徳川の豊臣の対立は解消されず、慶長20年(1615)年、姉・淀殿は大坂夏の陣にて自害して果てた。夫が総大将ではなかったのがせめてもの救いだっただろうか。
● 「妻」としての江
江が悪く見られる要素はここから始まる。
大名が一人でも多くの側室を持ち、子孫を絶やさないことが半ば義務とされた時代に、彼女は異常な嫉妬深さを見せ、それが為に(それだけが理由ではないにしても)夫・秀忠は側室を持つことが無かった。
実際には何度か「浮気」し、「保科正之」という隠し子もいたのだが、秀忠と正之の対面が叶ったのは江の死後だった。そして江には秀忠と別の女性(「家女」とのみ伝わる)との間に生まれた子供「長丸」を殺したとの伝承もある(しかも灸で殺すという残忍なもの)。
如何せん、記録が少なく、正確さにも掛けるが、その影響もあってか、ドラマ等では、秀忠が、手を付けた「お静」が保科正之を懐妊した際に、発覚すればお静と正之が江に殺されかねないとうろたえるシーンが何度か演じられた。
長丸殺害が事実なら江はとんでもない悪女だが、そこまでする動機も謎なら、同時に何故に秀忠がここまで江に遠慮するかも激しく謎である。
一般には、江が秀忠より年上で、「秀吉の養女」という立場であったため、律義な性格であった秀忠は頭が上がらなかった、と云われているが、秀吉死後の徳川の世でまで縛られる謂われは無いし、秀忠は決して江の言いなりではなかった。また秀忠は場合によっては結構非情な手段を取っている。
単純に秀忠が江にベタ惚れで、側室を持つことで江の悲しむ顔・嫉妬する顔が見たくなくて(表面上だけでも)そうしたのであれば、江はかなりの果報者である。
ともあれ、江は徳川15代を通じて、御台所にして将軍生母となった唯一の女性となった。初代の家康や末代の慶喜は別個として、代々の将軍は10代初めで女性というものを良く知らないままに、公家の娘を正室に迎えた。
故に正室よりも、自分の意志で捕まえた側室の方を寵愛する傾向にあり、正室の多くは充分な寵愛と子宝を得られないまま夭折するケースも多く、世継ぎは側室ばかりが生んだのだ。
秀忠が遠慮なく側室を持てば、江が女児ばかり産んでいる間に別の女性が世継ぎを産んで、寵愛がそちらに移った可能性は充分にあった。
● 「母」としての江
この点に関する江像が一番複雑である。
よく云われるのが、
「江は乳母・春日局に養育を任せた竹千代 (家光)よりも、自らが育てた国千代(忠長)の方を偏愛し、廃嫡の危機に曝され、両親に愛されなかった竹千代は自害さえ考えた。」
という冷酷な母として伝えているものであろう。
真偽はともかくとして、状況的にそのような気持ちに陥るのは分からないでもない。政略結婚や、10歳に満たない女児の嫁入りが珍しくなかった時代とはいえ、江は秀忠に嫁いできた時からして、娘「完子」と生き別れにされ、その後産んだ娘の大半は幼くして他家に嫁ぎ、ようやく産めた待望の男児・竹千代の養育は乳母「お福(春日局)」に一任され、病弱な竹千代が度々病気に陥っても、母として看護に携わることを許されなかった。
いつも一緒にいられた国千代を多少偏愛したとしても(程度によるが)致し方ない面も考えられないではない。
成長した竹千代は「家光」になってから御守袋の中に「二世権現、二世将軍」という紙を入れていたと云う。「家康思慕」というより、「秀忠無視」と取れる文面を見れば、父・秀忠を無視するほど怨むか、憎むかしていた様に受け止められ、江も同様に見られていたと推測されるのは想像に難くない。
そして、竹千代廃嫡を案じたお福の直訴を容れた家康が江戸に来た際に、竹千代を膝元に呼んで手ずから菓子を与えたが、同様にしてもらおうと近寄ってきた国千代には分を弁えるよう叱責したシーンが有名なのだが、これによりさも秀忠と江が渋々国千代擁立を諦めた様に観られることも多い。
ちなみに後に改易・切腹という非業の人生を辿った「徳川忠長」だが、改易時に江は亡くなっていたが、秀忠は存命で、家光の独断だけで行われたことではなかった(当時のお約束として、大御所・秀忠は実権を握り続けていた)。さすがに切腹命令は秀忠死後のことだったが。
いずれにせよ、秀忠・江に忠長偏愛があったとしても、時代のしきたりを無視する程のものではなかった様である。
● ではなぜ「悪女」とされるのか?
家光が、父よりも祖父の方を異常なまでに慕い(←歴代将軍の中でも家光は群を抜いて多数回日光東照宮を詣でている)、偏愛された(と見られる)忠長の非業の最期が、状況証拠的に江に鬼母のイメージを被せているのだろう。
夫・秀忠は、政治家として、主に豊臣恩顧の大名家を中心に数々の改易を行って諸大名震え上がらせて幕藩体制を整えた辣腕家だった。
また、家庭にあっても、忠長が鴨を狩って、夕飯に供したときは喜んでこれを食そうとしたが、鴨が江戸城西の丸の堀にて鉄砲で狩られた物と知ると、「西の丸で鉄砲を使うとは主君である将軍に対する反逆!この様な物は食えぬ!膳を下げさせい!」と怒り露わにしたことがあり、これには江も沈黙して従うしかなかった。
江は、秀忠を完全に尻の下に敷けていた訳ではなかったのである。ただ尻、の下に敷いていたイメージが強いので、秀忠と家光との微妙な関係まで背負い込んでしまった感がある。
尚、伝存史料からは、江が国千代を偏愛し、竹千代を粗末に扱ったという具体的な証拠は存在しない。『藩翰請』には竹千代より国千代を将軍後継者に考えた記述も見られるが、その主語に来るのは秀忠である。にもかかわらず、江まで悪く云われるのは「秀忠を支配していたはず」との偏見から来ていると見られる。
つまり江は、「状況証拠の犠牲者」なのであろう。
saikondojo.g2.xrea.com/meiyo-w8.html
以上、また ↑ こちらのWEB記事様よりガッツリまんま転記させていただきましたが、何十回も言いますけど、あくまで私個人の自分用メモなので、どうかお許しくださいまし!m(_ _)m
ともあれ、おかげさまで江のイメージが変わりましたことは間違いなくでして。最初は通説どおりの鬼嫁イメージだったのが、大河ドラマで無理くり印象アップしようとした逆効果で余計に嫌いになってたところ、この考察によってようやく普通レベルまで戻って来ました。
そう考えると、あの大河ドラマはつくづく罪深いw
あの世で江もカンカンなはずですよ。