創意軽視・伝統重視
儒家思想
前回、アヘン戦争(1840~1842)で中国(清)軍がとったトンデモ戦法を紹介しましたが、中国はイギリス軍に完敗するまで、西洋文明など相手にしていませんでした。
といっても、西洋の武力をまったく知らなかった訳ではありません。
アヘン戦争のほぼ半世紀前には中国は西洋のすぐれた武器に触れていましたが、それを無視していたのです。
天津社会科学院の呂万和教授はこのような話を紹介しています。
一七九三年、マカートニー使節団が中国に来た時、その実力を見せびらかすため、贈り物の中に、モーゼル銃・速射銃などの武器および当時イギリス最大の軍艦の模型を入れた。
これらの先進武器を見た時、乾隆帝も大変賞賛し、特に軍艦大砲についてはさらに詳細に下問した。
乾隆は中英両国間の巨大な格差に気づかないはずはなく、これにより覚醒し、ヨーロッパの科学技術を真剣に学ぶべきではなかっただろうか。
ところが乾隆は「天朝無所不有、従不貴奇巧」(「天朝にはないものはない、従来から奇巧なものも尊ばない」:原注)と言った。
【呂万和『明治維新と中国』六興出版 東アジアのなかの日本歴史6】
マカートニーはイギリスの外交官で、1793年(寛政5年、松平定信の「寛政の改革」のころ)に、中国に広く自由貿易を認めるよう要求するために派遣されたイギリス使節団の団長です。
当時中国では広州を唯一の自由貿易港として商人間の貿易を認めていましたが、制約の多いものでした。
イギリスはこれだけでは不十分として、通商条約を結ぼうとしたのです。
清朝側は乾隆帝に直接面談するには皇帝への最敬礼である三跪九叩頭の礼をとることを要求したのですが、マカートニーはそれを拒絶し、乾隆帝の許可を得てイギリス流に片膝をつく姿勢で親書を奉呈しました。
しかし、謁見しても通商については一切交渉できずに終わっています。
このときに持参したのが、最新の武器や軍艦模型でした。
乾隆帝はこれらに興味を示したものの、危機感を持つことはありませんでした。
呂教授は「幕末日本と比べ、晩清中国の朝野の人士はこのような民族危機感が欠如しており、まして危機が既に目前に明白に見えていた時も漠然と見るのみで、動かなかった」と述べています。
なぜ西洋の進んだ兵器を目にしても危機感を持たなかったのでしょうか。
別の中国人学者の分析はこうです。
乾隆皇帝朝服像(ウイキメディア・コモンズ)
儒教絶対の理由は科挙
日本近代史の研究者である北京師範大学の馬家駿教授は、アヘン戦争前における中国指導者層の考え方をこのように書いています。
アヘン戦争が起こる前まで、中国の封建支配階級は、儒家思想を核心とする伝統的文化は宇宙を網羅でき、善美の極致を尽くしたものとみていた。
彼らは「天朝大国」を自任し、優越感の自己陶酔に陥り、経済・文化の立ち後れを認めないばかりか、反対に世界で中国のみが礼義(ママ)の邦、人類社会の手本であり、中国以外の「夷狄蛮貊(いてきばんばく:野蛮人ども)」には文化などあるはずがないと思い込んでいた。
【馬家駿・湯重南『日中近代化の比較』六興出版 東アジアのなかの日本歴史8】
馬教授のいう儒家思想の特徴はこの4点です。
①倫理重視・科学軽視
②技術重視・生産軽視
③伝統重視・創意軽視
④保守重視・改革軽視
馬教授は、この儒家思想こそが「社会の進歩と発展をひどく阻害した」と断じています。
日本で儒教がひろまったのは江戸時代で、せいぜい200年間程度ですが、中国では儒教が絶対的な権威として確立していました。
儒教は、漢の武帝(在位はBC141~87)が「百家しりぞけ、独り儒術尊し」という文化政策をとって以来、中国の主流思想となりました。
さらに、官吏採用試験「科挙」の科目が儒教(+文章力)のみだったことが、それに拍車をかけています。
日本の支配者階級は家柄で固定していましたから儒教は教養の一部でしたが、中国では出世の条件が家柄ではなく科挙に合格することでした。
そのために中国の男性(女性は受験できない)は、幼い頃から死にものぐるいで儒教を勉強したのです。
中国で科挙が始まったのは「随」の時代(587年)でした。
その後さまざまな王朝が交替し、異民族に征服されたときも何度かあったにもかかわらず、科挙の制度は続きました。
科挙の最後の試験が行なわれたのは「清」の末期(1905年)ですから、1300年以上続いたわけです。
このように長い年月にわたり儒教だけを学び続けたことで、中国では儒教が絶対的な権威となりました。
その結果、新しい武器を軽ろんじ(創意軽視)、昔からの武器や戦法に固執(伝統重視)して、イギリス軍に大敗したのです。
旧武器は中国に売却すればよい
創意軽視・伝統重視という中国人の特性を利用しようとしたのが、島津斉彬でした。
中国と交易のある琉球を経由して、薩摩藩の旧式武器を清に売却し、その代金で近代兵器を購入しようと考えたのです。
琉球行きを命じられた市来四郎は、斉彬から受けた指示をこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、句読点を補っています)
渡琉前、種々御沙汰の中に、清国も内外の難題に苦しみしより、近年兵備も手を付け候様子に聞こえたり。
然れども清人は頑固にして、未だ西洋の兵式を用いざる由。
依って此方にある古制の大小砲無用のものは売渡す都合を琉人へ内諭し、私(市来)にも商人に錯(まじ)り渡唐し、売込みは素より、天津北京上海広東辺の諸所に至り、外夷の形況をも見聞きすべし。
古制の大小砲或は燧石(すいせき:ひうちいし)銃、火縄銃、或は古法の野戦砲はすべて売払い、新式を製する方にすべし、之を地金にしても益なしとの御事なり。
【「琉球渡唐商人共へ御内示、清国ヘ大小砲銃等売込マシムベキ旨御内命ニツキ、琉商人ニ錯リ渡唐スベシトノ御内命」『島津斉彬言行録』岩波文庫】
「清人は頑固だから、いまだに西洋の兵式(武器や戦術を含む軍隊のシステム)を用いない」という斉彬の見解は、儒家思想から脱却できない清国の実情を見抜いています。
そこに着目して、旧式武器を清国に売り、その代金で最新兵器を手に入れようと考えたのです。
残念ながら、斉彬の急死によって、この計画は実現できませんでした。
とはいえ、まだ鎖国が続いている中でこのような考えを持ち、実行しようとした人物は斉彬だけでしょう。