9/6 「承認欲求」 三浦 遥牧師 聖句:ガラ1:1-10
本日の箇所でまず目に留まるのは、その書き出しの長さです。「人々からでもなく、人を通してでもなく」。パウロは自分が誰の推薦で立っているのでもないと、念入りに断ってから書き始めます。そして挨拶が終わったとたん、語りは厳しくなります。6節「あきれ果てています」。この語はもともと「驚く」という意味で、新約に43回出てまいりますが、その大半は福音書で、人々がイエスの業に驚く場面に使われています。パウロはそれをここで裏返すのです。では何がパウロを驚かせたのか。一説には、救いに至るには信じるだけでは足りず、何かを行わなければならないという教えが入り込んでいたと言われます。けれどもガラテヤの人々は、福音に反発したのではありません。この恵みに何とかして報いたい、ふさわしい者でありたいと願ったからこそ、そちらへ引っ張られていった。
その気持ちは分からなくもないと思わされます。誰かに認められたいという願いを承認欲求と言います。これ自体は悪いものではありません。「ありがとう」と言われれば明日もがんばろうと思える。認められることは励みになり、向上心も生まれます。けれども寄りかかりすぎると、認められなければ自分に価値がないと思うようになる。自分がここにいてよい理由を、他人の評価に預けてしまうのです。この危うさは教会の中にも入り込みます。「もっとやらなければ」という思いが積み重なると、元気に動ける人ほど信仰深いという、おかしな物差しができてしまう。だからこそ10節で「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか」と語るのです。
パウロ自身、かつて熱心さによって認められてきた人でした。ここで冒頭に戻ります。人に認められたから働いているのではない、神が呼んでくださったから立っている。順番が逆なのです。何かを成したから認められるのではなく、すでに認められているからこそ、誰かのために何かをなすことができる。神は何ができるかで値打ちを決める方ではなく、生まれてきてくれてありがとうと先に声をかけてくださる方なのです。