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Silver × Silver Glasgow

Jindo Monolog 15 -Dual Identity-

2026.09.07 06:35

最近少し書き物をサボってしまった。

久しぶりではあるが振り返りを。



若干タイトルとは色々脱線して殴り書きするかもしれないが、忘れないうちに。


途上国へ来るとしばしば「日本人バイアス」が発動してしまう。

グローバルノース病とでも言うべきか。


スポーツの世界はなおさらである。


例えば私はディシプリンを何よりも大切にしてしまう。

そうでなければバスケットボールは勝てないからだ。


ディシプリンなしで勝てるのは、おそらく圧倒的なフィジカルギフテッドだけだろう。


例えば多くの日本人は「時間を守る」ことが絶対的正義だと感じている。と思う。

しかし途上国ではきっとそんなこともない。


例えばインドネシアでは「今そこにいるあなた」との時間を大切にするので、

次に予定されている「今そこにいないあなた」との時間の優先順位は下がる。


日本人は正確に時間を回す(スケジュールを不可分なく回す)ことを大切にするが、

インドネシアではよく想定外あるいは想定不足の事柄に対して柔軟に対応するがゆえに

Jam Karet(ゴムの時間)、時間を伸ばしていく慣習が当たり前のように存在する。


スポーツにとって時間は絶対的な基準のひとつで、ことバスケットボールに関しては時間が都度伸びることは好ましいことではない。


時間のゴムを緩ませれば緩ませるほど、競技の質は下がっていくものである。


例えばインドネシアではエゴ(あるいは自己)を優先することが多々ある。

結果として渋滞を巻き起こす。もしかしたらそうしなければならないほど毎日がサバイバルなのかもしれない。


日本は他者を優先し、自己よりも効率や社会が円滑に回ることを優先する。こともよくある。(結果として望まれない自己犠牲も多々ある)


ここで言いたいことは、どちらが正しいかではなくて、どうすればどちらとも共存する形が取れるかどうかと言うことである。


日本の正義を押し付けるならそれはコロナイズすることと何も変わらず、

現地の正義をそのまま受容するならそれは途上国に何をしにきたかもわからなくなる。


途上国に来ると自分のアイデンティティが二分する。

適切な言い方ではないが、

グローバルノースから来た自分と、

グローバルサウスに住む自分の2人の人格を持ち合わせる。



どちらのいいところもあり、どちらの悪いところもある。

最終的には自分の中で2人の人格が統合しあってちょうどいい感じになるのかもしれない。


2年間の活動の中で自分が思っているよりも自分は変わっていく。


もしも日記や記録を毎日つけている人はAIにかけて分析してもらうとその変化がきっと顕著に出ると思う。



アイデンティティが2つあると、

2つのアイデンティティが反目しあったり、統合しようと試みたり、2つがいがみ合わないように併存したり、はたまた共存しようとお互いをリスペクトし合う。


自分の中で納得できるような「居心地の良いアイデンティティの置き方」を見つけた時、

グローバルノースとグローバルサウスと壁が取っ払われて、

グローカルアイデンティティが生まれる。


ここで難しいのは、

グローバルノースから来たグローバルサウスに住む日本人はこのプロセスを踏めるし、

グローバルサウスから来たグローバルノースに住むインドネシア人も容易にそれを理解できるが、要はシングルアイデンティティだとなかなかこのプロセスを実感して踏むことが難しいと言うことである。


日本に旅行でもいいから一度でも行ったことがある日本人には容易に日本の規律等を説明できる。


「なんで日本はあんなにトイレが綺麗なんだ?」


「なんで日本は電車が5分遅れただけで謝罪アナウンスを流してるんだ?」


「なんで日本は電車でスマホ忘れても返ってくるんだ?」



日本に旅行に行った人は、私のインドネシアでの生活規範をすぐに理解してくれる。

例えば土足で体育館に入ること、特にコートに土足で入ることを嫌うこと。



逆にインドネシアで私が学んだことももちろんある。

インドネシア人は左手を使うことを嫌う(正確には右手を大切にする文化がある)


もちろん忘れて左手を差し出してしまうこともあるが、極力思い出した時には右手を使おうとしている。


アイデンティティが2つあると自然と現地に順化あるいは順応しようとするプロセスや、必然と現地への敬意を払うことが容易になる。


どちらが正解ではなく、デュアルスタンダードはポジティブなダブルスタンダードを自分の中で作ることができる。


デュアルアイデンティという考え方はアカデミックな話は省略するが、

何もナショナルな文化に限った話ではない。


もしかしたら言語かもしれないし、宗教かもしれないし、民族(血)かもしれないし、セクシャリティかもしれないし、ジェネレーションかもしれない。


シングルアイデンティとデュアルアイデンティのどちらがいいという話でもない。

どちらもメリットデメリットは往々にしてあるだろう。


問題はどうすればシングルアイデンティの人にデュアルアイデンティティーを理解してもらえるか(もしくはデュアルの人にシングルを)ということである。



マルチアイデンティティであるとアイデンティティを複数使い分けたり、その混ざりあった波をサーフィンすることができる。時にそのせいで葛藤や不具合も生じる。


シングルアイデンティティだと他のオプションがなかったり、マルチアイデンティの人への敬意や理解が不足する。


マルチアイデンティティだと柔軟さに富む一方で、シングルアイデンティティの人たちへの理解の欠如だったり、無意図的なコロナイズに走りやすくなってしまう危惧もある。そして、自分のアイデンティティをうまく調和できないと、その不協和音で自身を苦しめることも多々ある。



途上国での活動は自分の持っているアイデンティティを豊かにしてくれる一方で、

そのアイデンティティを現地の人に理解してもらうことが大変むずかしい。


柔軟に対応できれば対応できるだけ、そこに「日本らしさ」がなくなり、

「それなりに順応できた良い日本人」で終わってしまう。


もちろんラポールは活動の最優先事項であり何事もラポールファーストから始まる。

順応はアイデンティの深化ではあるが、できることならもうひとつ自分のアイデンティティを他者に伝えることも残りの期間でしてみたい。


それはおそらく2年の間では伝わり切らないことかもしれないが、活動期間内に活動成果など求めても難しい。


他者のアイデンティティを理解しようと試みて、


あなたのアイデンティティを理解してもらおうとする試みは、


あなたが帰った何年後も後にDelayed Indentityとして彼らのアイデンティティの片隅を形成する。


自分のアイデンティティを他者に渡せるか。


そして現地の人からたくさんのアイデンティをもらい、自分のアイデンティティをよりマルチなものに形作って行けるかどうかが途上国で暮らすことの醍醐味である。



少しバスケットボールの話に戻ろう。今回のカテゴリはバスケなので。


先日、とある選手の保護者と話をした。

私に快くいつも湯船を貸してくれる友達でもある。



彼の息子は最近パスがとてもうまくなった。

自分がシュートを撃てる場面で彼は素晴らしいアシストパスを仲間へしたのだ。

それを見た父親の彼はいたく喜んだそうだ。


エゴありきのインドネシアのバスケットボールにおいて、

幼少期にパスができるのはとても稀なことである。



バスケに限らず、目に見えずらいもしくは誰も見ていないようなところを頑張れるという能力はなかなか簡単に育たない。


私には彼がなぜパスできる(パスのほうが彼にとって大切になった)ようになったかはわからない。


それでもシュート(バスケットボールにおいて何よりも価値の高いとされている選択)よりも意図的にパスをしようと思うようになったこと、そしてその選択を実行できるようためのスキルを身につけたこと、そしてそれをチャレンジしようと勇気を持ったこと。その誰も予想しないアクションをとったことに父親の彼はとても満足していた。



「私は息子にバスケットボールを通じて、ライフレッスンとしてバスケを楽しんでほしい」と車の中で私に向けて彼の父親観を話してくれたのがとても印象的だった。


バスケが上手くなると同時にそのパスは仲間を幸せにした。


チームを幸せにした。


両親をも幸せにした。


そして彼はおそらく理解した。

「シュートよりもパスのほうがチームを幸せにできることもある」と。


この気づきは発達段階のバスケットボールファンダメンタルIQとして非常に大事であるが、

そんな簡単には辿り着けない思考形態である。



彼はシュートとパスの両方のアイデンティティを獲得したのである。

デュアルアイデンティである。


こうなるとシュートアイデンティとパスアイデンティを行ったり来たり縦横無尽に駆け巡ることができるのできっと良い選手になるだろう。



「エゴは悪いことではない。後天的にエゴが削られることはあれ、エゴが磨かれることはない」と。


スポーツ漫画では「エゴ=良きもの」である。と語られることが多い。


おそらくそれは日本人のアイデンティならではかなと思う。

エゴを捨てることが美徳な国だから。


しかし途上国やネオリベラルすぎる国はそんなことはないと思う。


エゴが誰かを不幸にするということをよく見かけるからである。


なので私はバスケットボールではいつもこう教えている。


「そのエゴが誰かを幸せにするのならそのエゴは引っ込めなくて良い」


つまりは「チームのためのシュート」であるならそれはエゴでもなんでもなくあなたが撃たなければならないということである。


バスケットボールのすべてのプレイは

「仲間を幸せにするために行われるべきである」と私は思う。


選手一人ひとり役回りが違う。


勝つという目的達成のために、チームで役割を分け、

そしてRoleless-nessやPositionless-nessのように試合を通してポジションや役割は目まぐるしく循環する。


つまりマルチアイデンティティでチームのためにその瞬間瞬間に求められる最善の役回りやアクションを行う必要がある。


時にはシュートを撃たないといけない時もあるし、パスをしないといけない時も、泥臭い仕事もしなければならない。


「チームのために自身のアイデンティティを常に変えられるか」が問われるスポーツである。

(もちろんそれは指導者も同じである)


チームのためにエゴを捨てられる選手は、バスケットボールを引退した後は、それが

トランスファラブルスキルとして将来にも残るだろう。



「チームのためにエゴを捨てられる選手」


「チームのためにエゴを貫ける選手」


これはエゴという名前ではなく、


ファシリテーションやリーダーシップという名前に変わっていくだろう。



彼のパスはエゴではなくアイデンティという形で昇華された。


パスというもうひとつのアイデンティが彼の(すべてのバスケットボールプレイヤーが持つであろう)エゴアイデンティティであるシュートをより際立たせるようになるのである。


パスに面白さを覚えた選手はバスケットボールの解像度が上がり、

もっともっとバスケットボールが楽しくなる。


幼少期において「パスは楽しい」というファンダメンタルIQは獲得が容易ではない。

IQというか非認知能力かもしれない。


そのファンダメンタルは早ければ早いほど、バスケットボールの寿命が伸びる気がする。

(エビデンスは語れないので今後の研究対象としたい)



私は高校2年生ぐらいまで「パスがおもしろい」という認知ができなかった。



いつからパスの楽しさに気づいたのか。



「仲間が私のパスを喜んでくれること」


「誰も見てないけど、私だけがそこ(時間的にも空間的にも物理的にも)を見ていたんですよ」


その2つのスペシャリティがきっと私の性格(アイデンティティ)とうまくマッチしたんだろう。


パスにもきっと種類があって



「自分のエゴ(味方を不幸にする)でするパス」


「仲間を幸せにするためのパス」


「特に意味もなく惰性で行うパス」


「自分のエゴをパス(スキップ)するパス」



パスに何を込めて選手がパスしているのか?



指導者はそれをつぶさに観察しないといけないし、


パスの質を問わなければならない。



「意思のないパスはエゴとそう変わらない」


チームのためのパスであるからこそ、


そこには丁寧な気遣いがあって、


思い遣りとメッセージがあって、


ワンポゼッションの中にそのパスストーリーが創られていく。


とある漫画のワンシーン


パスしたボールにはメッセージが書いてあった。


マンガのメタファーだけど、


良いパスにはパスを受け取る人へのメッセージか書かれているのはバスケットボールをしている人なら誰もがわかると思う。



そのパスは本当にシュートが撃ちやすい。

そしてその成功率もきっと高い。


チームの意思がそこに乗っかっているから。



「自分の意志ではなく、チームの意思でシュートを撃つことを導かれるようなパス」


物語を感じられるようなパスに人はきっと感動し、そのシュートが入る(もしくは落ちる)からこそ見ている人はそれに熱狂するのだと思う。


「あいつがあんなパスを出せるようになるなんて」


息子の成長ぶりを喜んでいた私の友達は、優秀な経営者で、

彼の会社のスタッフたちはよく訓練されている。



バスケも会社経営も根本はきっと変わらないのだろう。


「チームの中の自分であれ」


「誰かを幸せにするために自分ができることを探せ」


「誰かを幸せにするために自分も幸せになりなさい」



エゴからアイデンティティそのかたちが変わった時、

初めて「チームとしてのバスケットボール」が育まれていくのである。



もっともっと残りの期間で「バスケットボールを通じたアイデンティティ教育」

ができたらいいなと思う。



さて、脱線したが、本題に。

いちばん話したかったデュアルアイデンティティの話。



インドネシア(主語が大きすぎるのでとりあえず私の街では)では、

学校(部活)とクラブの2つに所属できる。


日本はどちらか1つにしか登録できないのでデュアルで所属は不可である。

(バスケに限った話)




自分が中学生の時は、野球やサッカーで優秀だった同級生は部活はせずにクラブで活動してたように思う。


私は日本の部活文化でシングルのほうが望ましいだろうとずっと思っていた。


大事な大会が被ったらどっちを選ぶのかとか、


デュアルでは指導(者の教えや方針)が違ったり、練習量が半分になるから上手くならないだろうと。


個人スキルは上がれど、チームケミストリーは深まらないと。


アイデンティの拠り所が分散すると良くないのでは?と思っていた。


しかし、インドネシアに来てその考えは少し変わった。


私の選手たちを見ていると、そのほとんどが私立高校である。


まだインドネシアの教育制度はよくわかってないが、

おそらく日本と同じでバスケットボールは私立の方が強い。


しかし、それは日本のようにスポーツ推薦のようなものではなく、

おそらくバスケットボールはこの街においてはエリート(富裕層)スポーツなのだろう。


エリートスポーツの議論は今回はしないが私立の強豪校を除くと、私の選手たちの多くは偏差値の高い学校やインターナショナルスクールに通っている。


それは親の方針なのは間違いないが、偏差値の高い学校は得てしてバスケットボール部が弱かったり(人材不足)、満足なスポーツ施設、環境が整っていないのである。あるいは学業にフォーカスしている分、スポーツに興味がない、つまり文武両道ということにはならないのである。


日本のバスケットボールの学校が文武両道かというとそれも少し怪しいが、

公立に関しては少なくとも偏差値が高くてバスケットボールも強い学校はたくさんあったように思う。国立大学でバスケットボールが強い大学もたくさんあった。




バスケットボールをしたくても親が学業を疎かにすることを許さない場合は、バスケットボール環境が厳しい学校に進学しないといけない。


そんな時にクラブチームはその問題を補完してくれる。


そして、可能な限りで彼らは部活動(体育祭のようなイメージで)にも参加するので、

しっかりと学生生活も謳歌できるのである。


選手たちのソーシャルメディアを除くと、ユニフォームが違うと、

「いろいろなアイデンティティでバスケットボールを楽しんでいるんだな」と感じる。


時には部活動で学校代表で、


時にはクラブでクラブ代表で、


時には北スマトラといった州選抜で。


アイデンティティが多ければ多いほど人との出会いが多いし、

たくさんの居場所が生まれる。


何かの事情で居場所がひとつなくなったとしても、

他に居場所があるかぎりバスケットボールが失われることはない。


「夢は2つ持ったほうが良い」と言われるように。


片方を失った時に、もう一つがあるということ。


依存先(よりどころ)が複数あることはレジリエンスにとってとても心強いことである。




私は書生時代はバスケしかしてこなかったのでよくアイデンティティクラッシュし、

幾度となくアイデンティティクライシスに陥った。

(正直今だにクライシスまで行かなくてもよくぶれるが・・・今だにバスケットボール以外のアイデンティティを探しているが見当たらないので困っている)



デュアルアイデンティティがアイデンティティクライシスを回避できるように、

バスケットボールの所属を複数持つことは、バスケットボールの寿命をできるだけ伸ばすことができるように感じる。


もちろんデュアルで所属することの問題もたくさんある。日本のバスケットボール界はそのリスクを排除するために所属を1つだけにきっと制限したのだろう。(これはまたどこかの機会で話したい)



少しインドネシアに住んで自分の選手を見ていると少し羨ましいと思った。


彼らは学校に友達がいて、クラブにも友達がいるからだ。


学校は勉強するところでバスケットボールをする場所ではない。

(日本の部活はこの点において大変グレーな場所になっている)


部活動は課外活動だからだ。


学校の友達と部活動の友達に優劣はないだろう。

もちろん過ごした時間の長さからソリダリティの質は違うかもしれないが、

属性が違うコミュニティに2つ以上所属することで、

自分のアイデンティを相互に往来できる。


本来なら


家族 ファーストプレイス


学校(職場)セカンドプレイス


部活 サードプレイス


だったところが


部活とクラブがデュアルサードプレイスとして機能する。


属性が変われば変わるほど、属性の違う人との交流が生まれ、

より多くのアイデンティティが形成され、

冒頭で前述したようにアイデンティティの揺らぎを苦しみながらも、

より多くの人とより多くのアイデンティティを交換することで、

さっきの父親のような

「私は息子にバスケットボールを通じて、ライフレッスンとしてバスケを楽しんでほしい」


といったHuman Developmentと


忘れた頃にやってくるReunionやEncounterがもたらすHuman Capitalに繋がっていくのかなと思う。


手段はバスケットボールでなくて構わない。

スポーツなんていくらでも代替が効くのだから。



それでも彼がバスケットボールを自分の意思で選んだのなら、


私は彼にバスケットボールを通じてより豊かなアイデンティティを形成していってほしい。


バスケットボールが素晴らしいアイデンティを形成するのではなく、


バスケットボールを用いてどのようなアイデンティとレジリエンスを作ってあげらるかが、

指導者の見せ所である。




子どもはバスケットボールが上手くなることと楽しむことを望んでいる。


親はこどもが社会に出た時を想像しながら健やかに成長してくれることを望んでいる。


指導者は選手が人格者となってチームを勝たせることを望んでいる。



みなニーズが違う。


アイデンティティも違えばそのポジション(立ち位置)も目的も違う。



きっと国際協力も同じだろう。


所属が違って、


身分が違って、


ポジションが違って、


目的が違う。


特に寿命が2年間しかないという限られた時間の中で焦ることがたくさんある。


時間的制約がいちばん焦りを生むからこそ、時間スポーツのバスケットボールは難しくて、

2年間限定の国際協力活動も難しいんだろう。



インドネシア人にとっては死ぬまでの時間の中の日本人と過ごす2年間。


私にとっては人生でもーインドネシアで過ごすかどうかもわからない、

おそらくインドネシアで過ごす最後の残り1年間。



求められていないものを差し出すこと。


求められているものを差し出せない(差し出したくない)こと。


差し出したいものを受け取ってもらえないこと。


差し出したくないものがありがたがられること。


あなたのアイデンティティの揺らぎの幅がレジリエンスの幅でもある。


レジリエンスを逆算しながら、

安全設計をしっかりしながら、

彼らにできるだけ多くのアイデンティティを培ってほしいと思います。



Social Pedagogyが最近大変ためになったので、

ぜひバスケットボールコーチは勉強してみてください。


雨季がとうとう始まりました。

(みんな言ってる開始時期が人によって違って、開花宣言日みたいなのではないんかいな?)


洗濯物気をつけよう。