vol.222「サムライの海外進出」について(後編)
前回、やたら「グロ」ーバルな話の2本立てで、胃がもたれましたんで今回は、とあるサムライの痛快サクセスストーリーをご紹介しましょう。なんでも籠を担ぐだけのペーペー侍から、タイで国王の座にまで登りつめた男がいたんですと!
ほんまかいなって感じですが、これがホントなんですって。
● シャム(タイ)で国王になったサムライ「山田長政」
山田長政は1590年に駿河国で生まれた。沼津藩に仕えて駕籠者(籠を担ぐ役)をしていた長政は、武士の身分ではあるものの、いわゆる末端の立場。武士として戦に出陣し、出世できるチャンスがあるかと期待していたが、時代は徳川家が治める江戸時代。泰平の時代となった今では武士の活躍の場はなかった。
そこで、海外なら武士として活躍できるチャンスがあるのでは?と思った長政は、1612年の朱印船に乗り、シャム(タイ)へ向かうことに。シャムの国際都市アユタヤに着くと、現地にいた日本人傭兵隊に加わった。当時のシャムはビルマ(現ミャンマー)との戦の真っ最中で、多くの戦を生き抜いた日本人傭兵が勝利のカギとなっていたのだ。
ビルマの他にアユタヤ港も攻めてきたスペイン艦隊を2度も退けた長政は、日本人傭兵隊の指揮を任され、当時の国王ソンタムから重用されるようになる。また、貿易商としても活躍し各国との経済戦争に打ち勝ち、アユタヤでの貿易を一手に引き受ける。その勢いは世界最大とも言われる東インド会社を撤退させてしまうくらいであった。
長政が国王の信頼を得ていたことはオランダ側にも知られていた。1628年3月1日付『インド参事会決議録』によれば、オランダ東インド貿易会社の総督であり「バンダの虐殺者」の異名を持つ「ヤン・ピーテルスゾーン・クーン」は、シャムからマラッカへ向かうジャンク船を拿捕したが、それがシャム在留日本人の長政の持船であることが判明すると、シャムでの不利益を生じることをおそれ、船を解放している。
このような功績が認められ、長政は元和7年(1621)に日本人町の頭領になり、老中、土井利勝と本多正純を介して日本とシャムの国交に尽力。寛永5年(1628)には官位制度の三位である「オークヤー・セーナピモック」を任ぜられる。セーナピモックとは「戦の神」の意味である。
しかし、その翌年には国王ソンタムが跡継ぎを決めないまま崩御してしまい、王位継承を巡る政戦に長政は巻き込まれてしまう。
当時、シャムでは弟が跡を継ぐのが普通であった、が、長政は息子が継ぐことを推しており、一応その通りとなるのものの、実は息子についていた長官の「シーウォラウォン」という人物が「俺が王になってやる」と野心に満ちていた危険人物だった。息子に王位を継がせて、そばにいる自分が権力を握る。そんな策略を立てていたのだ。
シーウォラウォンは、長政の排除をもくろみ、王になったソンタムの息子に命令させて、リゴールというシャム王国の南の方の一国へ長政を左遷させる。そこは戦の絶えない場所だったため、その争いを鎮圧するためという名目で長政を送った。
そして、野心家シーウォラウォンは、すぐさま王を殺害。目論見どおり邪魔な長政を遠くに追いやっている間に、自らが「王」を名乗ることに成功した。
しかし、シーウォラウォンの予想外のことが起こる。隣国と争う位置にあったリゴールだったが、長政は戦わずして、7日間で戦を制圧してしまったのだ。まさに軍神! リゴールの内乱を平定した長政は「リゴール王(六昆王)」に任ぜられた。
王となった長政は、シーウォラウォンの暴走を止めるためにアユタヤへ向かおうとするが、侵入してきた隣国のパタニ軍との戦の最中に負傷。傷を癒そうと塗った軟膏に毒を盛られ、それが原因で長政は41歳で亡くなったのである。
長政の死の報にシーウォラウォン王は安堵し、長政の貿易船が日本から帰ってくると一旦はこれを没収したが、日本人の反抗をおそれて返還した。しかし、日本人は王への反逆心を抱き続けたため、王はある夜に日本人居住区に火を放ち大砲を撃ち込んだ。日本人はジャンク船に乗り込んでカンボジアに逃れたという。
長政の死と日本人町焼討ちの情報は、日本へもたらされ、幕閣の協議の結果、シャムと日本との国交が一時断絶する結果となった。
現在では、タイのアユタヤ(バンコクから北へ約70㎞)にある日本人町の跡地には、「日本人村」の名称で石碑や記念館が建ち、歴史を知ることができる施設となっている。
● 2代将軍秀忠は、鎖国へと舵を切り始める
幕府はすべての外交問題において中立を保ちたいと考えていたようで、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスに平等に活動を許可していた。しかし、平戸の「中立」的な軍事貿易は、それに反する結果となった。
1620~21年には、イギリス・オランダ連合艦隊が平戸に現れ、ヨーロッパの戦争を日本に持ち込んで来た。彼らは、日本に向かっていたスペイン人宣教師を台湾近海で捕らえ、幕府に引き渡す代わりに、マニラとマカオを攻撃するために2000~3000人の兵士を雇うことを要請したのだ。
平戸の貿易は、幕府の中立的な立場を損ない、日本を外国の戦争に巻き込む恐れがあったため、2代将軍・徳川秀忠は、豊臣秀吉の古い命令を再発布し、日本人の海外への売買を禁止し、すべての海賊行為を違法とした。これらの号令に加えて、幕府の命なしに武器や鎧の取引を許可しないことも付け加えられた。
これはオランダに説明され、オランダ・イギリス両者は、幕府の領土内から日本人兵士(奴隷であろうとなかろうと)や軍事物資を入手できなくなったことを悟る。彼らは本国にそのことを伝え、この命令がすべての計画を混乱させたと幕府に抗議した。
また、スペインはマニラの日本人傭兵が暴動を起こして被害を被ったことなども幕府に苦情を申し立てた。幕府の対応は、これらの外国にいる日本人に関するすべての責任を放棄し、スペインにマニラの法律に従って対処するように指示した。つまり、幕府の公式な立場は、まさに「私はあなたを邪魔しないので、あなたも私を邪魔しないでください」というものだった。
そして1635年、幕府は本格的な鎖国の前触れとして日本人の海外渡航、ならびに在外邦人の帰国を一切禁じた。そのため、各国に散っていた日本人達は、朱印船貿易というライフラインを失ったのみならず、帰国することも叶わなくなった。当時の在外邦人のほとんどが男性であったので、やむなく現地の女性とくっつき、現地社会に静かに埋没していく運命となった。
1656年、アンドリーズ・べークマン画。バタヴィアの日本人町に住んでいた、無名の日本人キリシタン。この時期、既に日本は鎖国していて帰れないはずだから、彼はジャカルタで骨を埋めたのであろう。もしかしたら、現地に彼の血を引いた子孫が残っているかもしれない。
幕府が鎖国した理由は幾つかある。1637~38年にかけて発生した「島原の乱」の影響が最も大きかったが、流出する一方の日本銀の流出を抑えるという目的もあったのだ。1530年代に石見銀山が本格的な採鉱を始めてからずっとこの方、日本は銀を輸出し、生糸・絹布・綿布などを輸入していた。
戦国末期から国産綿花の増産が進んだので、綿布の輸入量は減ったのだが、江戸期に入って豪華な小袖などを求める富裕層らが登場したことにより、絹の需要が激増したのである。結果、海外からは大量の生糸が日本に流れ込んだ。消費財である生糸を銀で払って輸入しているわけだから、貿易収支的には望ましい事態ではなかった。
幕府は初め「糸割符制」を導入し、流通と価格をコントロールしようと試みたがうまくいかず、鎖国を機に貿易相手を中国とオランダのみとした。それでも国産絹の生産が軌道に乗るまでは、銀の流出は止まらなかったようだ。
えー、というわけで。痛快サクセスストーリーのはずが、なんか最後は結局モヤモヤっとしちゃいましたねー。しかし一時とは言え、ただの侍あがりが国王の座にまで登り詰めちゃうとは、世界仰天ニュースですな。シャムからの連絡を受けてた老中、土井利勝と本多正純も「山田長政って誰??」てなってたらしいw
このまま鎖国せずにいたら、もしかしたら欧米の植民地という植民地で日本人村を形成して、逆に植民地を乗っ取って治めちゃってたかも?
参考
https://mag.japaaan.com/archives/229494
https://www.kkenichi.com/entry/2020/08/04/山田長政から学べる教訓_何した人か5分で解説【活