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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.223「若君のご乱心」について

2026.09.19 20:10


さて、海外へ旅立ったサムライ達は放置して(実際そうだったみたいだし)話の舞台をまた日本に戻そう。今回のタイトルの若君とは「松平忠直」と「徳川忠長」の2名。忠直の方は、家康の次男「結城秀康」の長男であり、忠長の方は、家康の三男「徳川忠秀」の次男(家光の弟)である。


どちらも、なかなかのご乱心ぶりだったようで、面白いからメモっとこうかと。




● 結城秀康の長男「松平忠直」のご乱心


文禄4年(1595)、結城秀康の長男として誕生。江戸幕府初代将軍・徳川家康は祖父、2代将軍・徳川秀忠は叔父、3代将軍・徳川家光は従弟に当たる


父・結城秀康の死後、わずか13歳にして越前国67万石を拝領。秀忠の娘「勝姫」を正室に迎え、越前松平家の当主として君臨するようになったが、家中には問題が生じていた。家臣の中には、代々徳川家に仕えてきた者、そして新たに登用された者などが混在し、主導権争いが繰り広げられていたのである。


そんな折、農民同士の争いを火種に、譜代の老臣「本田富正」と、新参の重臣「今村盛次」が対立し武力衝突。慶長17年(1621)、「越前騒動」が起きてしまう。このときは、家康・秀忠親子が直々に裁定し、最終的には本田富正派が勝利して収まるが、これにより松平忠直の評価は失墜。力量に欠けると判断され、国政は本田富正が主導するようになる。


政治力の欠如を露呈してしまった松平忠直は、挽回の機会をうかがい続けた。若い頃から武勇と胆力には自信を持っており、戦場での槍働きができれば、再び将軍家の評価も得られると踏んでいた。


そこで起こったのが「大坂冬の陣」。しかし気合いが空回りし、なかなか戦果が挙げられない。「真田丸」を守る敵将「真田幸村」の計略にはまって大損害。のちに命令違反を叱責された。


さらに雪辱を期して参陣した「大坂夏の陣」では、命令を遵守するために戦闘を慎んでいたことで、動きが悪いと再び叱責。たび重なる失態を演じてしまう。が、最大の合戦となった「天王寺口の戦い」で名誉挽回。命令違反を犯して抜け駆けしたことが功を奏し、真田幸村をはじめ、「大谷吉治」や「御宿政友」など、名だたる敵将を討ち取ったのである。さらには、大坂城へ一番乗りを果たすという功績も挙げ、祖父・徳川家康に激賞された。


そののち、「二条城」において諸大名らの前で家康から直接、茶器「初花」を授けられ、加えて官位も昇進。しかし、21歳の松平忠直は茶器や官位にまったく関心がなく、欲していたのは領地であった。「領地の加増がなければ家臣達に報いることができない。官位などにごまかされない」と不満を漏らし帰途に就いたと言われている。


元和2年(1616)から年下の叔父義直・頼宣・頼房が秀忠に重んじられるようになったのとは対照的に、忠直の序列は彼等の下に甘んじるようになった。元旦の江戸城内における拝賀式では、席次が頼房の次になった。2月になると重病に陥った家康を見舞うため駿府に駆けつけたが、秀忠が家康と面会する際には義直・頼宣・頼房を同席させたのに対し、忠直にはそれを許さなかった。翌元和3年(1617)には、義直と頼宣が権中納言に任じられて官位においても明白に差が付いた。


元和5年(1619)に秀忠が上洛した際には、伏見城で猿楽が催されたが、この時も義直と頼宣の席は公家のそれに交じるものだったのに対し、忠直は諸大名と共に着席している。忠直はこうした度重なる冷遇に屈辱感を募らせ、それが加増が無かったことへの不満と合まって、ついに怒りを爆発させるに至る


もしかしたら「父・秀康は将軍・徳川秀忠の兄として本来なら将軍職を継ぐべき人間だった」というプライドも、そこにはあったかもしれない。忠直は次第に酒色に溺れ、目に見えて乱心がひどくなる。徳川秀忠の娘・勝姫という正室がいながら多くの妾を囲うようになり、募らせた不満の捌け口の1つとして鉄砲・砲術に熱中。暴虐な振る舞いを見せるようになった。


城の櫓から通行人を撃ったり、寵臣に命じて罪人や拉致してきた領民を惨殺させては、その様子を「一国御前」と呼ばれた妾と共に酒を飲みながら眺めて楽しむなど狂気的な行動を連発。またあるとき、父・結城秀康を追って殉死した家臣「永見右衛門」の未亡人を所望して断られると、腹いせに息子共々殺害したという。やがては、大名の義務である参勤まで怠るようになった。


特に衝撃的なエピソードが、元和8年(1622)に「黒田局」という女性を殺害した一件だ。ただ女性を殺したのではなく、忠直による勝姫暗殺の噂があったため、黒田局が勝姫の身替わりをしていたので殺してしまった、というのだから、とてつもない。将軍家の女性に刀を向けたのだから、幕府そのものへの反逆と受け取られても仕方がないと言えよう。


この段に至って、これらの素行不良をついに叔父・秀忠もかばいきれなくなり、ついに不行状を咎め、隠居を命令。隠居に応じない場合は軍勢を以て成敗すると脅し、出羽久保田藩主「佐竹義宣」や、加賀藩主「前田利常」、豊後岡藩主「中川久盛」に出陣の用意を要請している。


こうして松平忠直は藩主の座を追われ、出家して豊後国「府内藩」へ配流された。一説によれば、隠居の命令を拒んで江戸幕府と一戦交えようと考えた松平忠直を、母・清涼院が必死に説得したとも言われている。


隠居後は出家して一伯と名乗ったが、お家存続を考えて主君押込の非常手段に踏み切った家臣達に拘束されていたとの説もある。慶安3年(1650)9月10日に卒去、享年56であった。




● 徳川忠秀の次男「徳川忠長」のご乱心


幼少期の竹千代(家光)vs国千代(忠長)のくだりは割愛する。

春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着した後こと。


元和4年(1618)10月9日、国千代は父を喜ばせるべく、自らが撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳に供して最初は喜ばせたものの、その鴨は兄・竹千代が居住する西之御丸の堀で撃ち取ったものだということを知らされると、「江戸城は父・家康が修築され、後には竹千代に渡さなければならない所である。国千代の身で兄である竹千代の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、天道に背き、父・家康への配慮も無いことで、たとえ悪意無くとも将軍となる竹千代への反逆に等しい。」と、逆に秀忠の怒りを買ってしまう。秀忠は箸を投げ捨ててその場を退出するほどだった(新井白石『藩翰譜』)。


寛永元年(1624)7月、駿遠甲の計55万石を知行。この頃より家康の故地を意識した隣国の諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれるようになる。しかし、忠長は自分が将軍の弟であることを理由に満足せず、大御所である父・秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」という嘆願書を送るも、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始める


また、忠長の要求を知った3代将軍・家光からも、かつて祖父・家康が敵対した豊臣家が所有した大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われるようになり、幕臣達も諸大名に持て囃される忠長の姿を「まるで将軍が二人いるようだ」と評し、神経を尖らせていく。


やがて、最大の庇護者と言える存在であった母・江が死去したのを機に、忠長は深酒に耽るなどの問題行動が目立ち始める。


寛永7年(1630)11月、浅間神社付近にある賎機山で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近で行なった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ、殺すこと自体が禁止されており、更にこの浅間神社は祖父・家康が14歳の時に元服した、徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。


そのような場所で猿狩りを行うのは将軍家の血を引く者といえど許されないことであったが、止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主であることと、田畑を荒らす猿を駆除するという理由で反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は1240匹もの猿を殺したとされている。更にその帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及び、これらを聞いた家光を激怒させた。


また、あるとき酒に酔った忠長は、家臣の小浜光隆の子や御伽の坊主を殺害、その上翌日に殺害した者を呼び出す行動に出たとの記録がある。(前日に自分が殺したことを覚えてない?


その後も傅役の内藤政吉を甲冑姿で追い回す、殺害した禿を唐犬に食わせる、腰元に酒を飲ませて責め殺す、などといった狼藉に及んだとされる。そのうち忠長の乱行を恐れた側近は彼に近づかなくなり、幼い2人の子供が仕えるのみとなった。


「細川忠利」は、忠長のこれらの行為は酒乱ではなく、発狂によるものと記している。東洋大学非常勤講師・小池進は、統合失調症による幻覚や妄想のために凶行に及んだ可能性があると著書で主張している。


寛永8年(1631)12月、鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長が寺で休息したおり、小姓・小浜七之助が雪で濡れていた薪に火を付けられなかった事に癇癪を起こし、手打ちにしてしまう。事態を知って悲憤に駆られた七之助の父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の緒が切れてしまうこととなった。


忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に忠長を勘当し、処分を家光に一任。家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人きりの兄弟であると更生を促した。忠長もこれに同意し、4月後半には一時平静を取り戻した。しかし結局、行状は回復せず5月18日に甲府への蟄居が命じられた。寛永9年(1632)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。一説では秀忠本人からも面会を拒絶されたとしている


秀忠死後、忠長は改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。


寛永10年(1633)12月6日、幕命により高崎の大信寺において切腹した。享年28。自害だったという説もある。




どちらも血筋としては申し分ないサラブレッドだったわけだが、そのセレブな人生を見事に棒に振ったご乱心ぶりで。いや、逆にロイヤルファミリーだったからこそ、疎外されるとプライドが傷ついて狂気へと堕ちやすかったのかも、ですね。

あるいは、粛正した側が自己正当化のために「あいつは処分されても仕方ないほど狂っていた」と後から風評被害をでっちあげたのか? 結構そうゆうパターンもあり得るし。

後者だったら気の毒だなあ。。

前者であってほしい! 本当に狂っててほしい!

それはそれで悪趣味だが。



参考
https://www.touken-world.jp/tips/92710/
https://ja.wikipedia.org/wiki/松平忠直

https://blog.kojodan.jp/entry/2020/12/28/180000

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川忠長