Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

哲学対話

ヒント/主体②「subject」という言葉

2026.09.09 00:45

「主体」とは英語の「subject」の訳語として作られた熟語だ。

綴りから分かる意味は「sub(下方に)」+「ject(投げ出された)」で、「従属した人」という意味になり、「王の臣下」という訳に現れている。ところが、一般的には「従」ではなく「主」となるような印象をうける「主題」「主語」「主観」「主体」という訳語として使われる。つまり、相反する意味を同時に持つ単語なのだ。

単語が使われる文脈で、「主」になったり「従」になったりするのだ。訳分けることが逆に誤解を招くこともあるかもしれない。なぜなら「主」「従」を同時に含むことが「subject」だから、文章に暗示される両義性が訳分けによって消えてしまう可能性があるからだ。

先日たまたま図書館で借りた日本映画『日本のいちばん長い日』(戦争当時どのようにして終戦の日を迎えたかを描いたドラマ)の中で、ポツダム宣言の「the authority of the Emperor... shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers」の「be subject」を「制限下におかれる」(外務省)とするか「隷属する」(軍部)と解釈するかでもめるシーンがあった。ここでは「subject」は「従属」的な意味となる。

日本で現在15歳から80歳くらいまでの人であれば、「subject」は、「S」として学校の英文法の時間に何度も対面している。基本構文「S+V」「S+V+O」などの「S」はとりもなおさず「subject(主語)」のことだ。この場合は、「subject」は「主」である。

上記2つの中間になる「subject」は、会議の「議題」や絵画や芸術作品の「画題(作品を通して主張したい主旨)」として使われる時だ。発言したり表現したりする人が「主」で、発言や表現の内容(行為の対象物=客体)が「subject(主題)」で「従」となる。つまり「主題」とは、主な「お題目(従)」である。会議や作品だけに焦点を当てれば、「主題」はそのまま「主」としての意味を持つ。

一見矛盾するように見える「subject」の性質をもう少しはっきりと理解するために私はある仕掛けを考えてみた。「神」を文章に登場させるのだ。

例えば「I eat SUSHI(私はすしを食べる)」の前に神を入れて「The God make me to eat SUSHI(神は私にすしをたべさせる)」と理解する。つまり目に見えない神がいて、その臣下である私の行動は常に神の意志によって実現する、と考えると、「主語」としての「私(あなた、彼、彼女など)」は、「従者」でありながら現実に見える世界では「主」として見える。

内山の論考に、無理くり戻すと、「私が何かをする」のではなく「主体が私に何かをさせる」と考え、「主体」は何か実体を持つものとしは認識できないが、自分の外側にあるものと理解できる。


イタリアルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ブオナローティの逸話。(写真はルーブル美術館所蔵、ミケランジェロ作『瀕死の奴隷』)

ミケランジェロは彫刻家、画家、建築家として知られ、彫刻家として次のような逸話が伝わっている。彼は、彫像の素材のとなる石の塊を見るだけで、その中に彫像の姿を見抜くことができ、彼の作業はそれを彫り出すだけだ、と言うのだ。そして、現にその作業をするのは自分ではあるが、それは、神が彼の肉体を使ってそうさせているのだ、と言ったそうだ。

私は学生時代に彫刻を専攻した。その当時フィリピン人の留学生がいて、その彼は石の彫刻がとても上手だった。あるとき、立ち話をしていた時に、ミケランジェロの逸話とおなじく、彼もまた「これは自分が彫っているのではない。神さまが私の手を動かしているだけなんだ」と言っていた。

さすがに、朝起きて、顔を洗い、身支度をし、食事をし・・・といった雑事まで、「神の意志が・・・」となるかは分からないが、ある特定のことについては、今でも自分の外側に「主体」を持つ人々はいるのだと思う。(「コール(call)」(神様からの呼びかけ)ということを言う人は結構いる。)