山崎ハコ 歌唱『1975 デビューライブ』
半世紀ぶりによみがえった
1970年代の心の叫び
836時限目◎音楽
堀間ロクなな
山崎ハコが1975年9月26日、横浜市教育文化センターで行ったデビュー・リサイタルの実況録音を聴いた。ファースト・アルバム『飛・び・ま・す』の発売にちなんだもので、これまでその存在が知られていなかった音源が発掘されて今年(2026年)の夏に初めて日の目を見たのだ。だれよりも本人がこのCDリリースに驚嘆したらしく、ライナーノーツに「何て上手くて生意気な可愛い声だ!」のコメントを寄せている。
山崎ハコはわたしと同じ世代で、このとき18歳。大分県日田市の農家に生まれ、やがて家族とともに神奈川県横浜市に移り住んで、横浜学園高等学校在学中に音楽コンクールに出場したのをきっかけにインディーズレーベルのエレックレコードと契約して、シンガー・ソング・ライターとしてデビューを果たした。そのアルバムの冒頭に置かれ、このリサイタルでも最初にうたわれた『望郷』はこんな歌詞だ。
青い空 白い雲 菜の花の小道を
かけまわり ちょうちょとり遊んだふるさと
真白な霧の中 神社の石段を
かけ上がり 手を合わせ泣いてた小さな子
淋しくて悲しくて 出て来た横浜
やさしいと思っても みんな他人さ
いつの間にこうなった 鏡の中には
知らん人 疲れた顔で悲しげに笑ってた
帰ろうか帰ろうか 田舎のあの家へ
青い空 白い雲の 田舎へ帰ろうか
あの家へ帰ろうか
あの家へ帰ろうか
あの家はもうないのに
なんとまあ、泥臭い世界! ティーンエイジャーの少女がギターで弾き語りするステージの実況は、スタジオ録音のアルバムよりもずっと生々しい息遣いを伝えてくる。一方で、アルバムのタイトルとなり、リサイタルでは最後にうたわれた『飛びます』のサビの部分はこんなふうだ。
今 私は 旅立ちます
信じるために 飛び始めるのです
山崎ハコが彗星のごとく登場した1970年代は、空前の高度経済成長期を経て国内総生産(GDP)はアメリカに次いで世界第2位を占め(現在は第5位)、大規模な国土開発によって高速道路、新幹線、航空路線……がめざましい勢いで伸長して、まさしく未来に向かって「飛び始める」時代だったといえるだろう。と同時に、それにともなってまたたく間に失われていく過去の記憶に胸を疼かせるのだった、「あの家はもうないのに」――。こうしたアンビバレントな心情のもつれを、山崎ハコはストレートにうたってのけることでわれわれの琴線をかき鳴らしたのである。
そこで、わたしは同時代のもうひとりの人物を思い起こさずにはいられない。田中角栄。高等小学校卒業の学歴ながら、1972年に当時史上最年少の54歳で内閣総理大臣の座に就いて「今太閤」と呼ばれたかれは、新潟県で故郷に錦を飾る「1000年後の日本」と題した講演会を行った。その映像記録によれば、あのダミ声で高らかに持論の日本列島改造計画をブチ上げたあとにこう述べているのだ。
「私は新潟県人でございますから、新潟県の実情はよく知っているつもりです。私自身が長男でございますから、最後、東京で死のうというふうに考えておらないんですが、政治の責任の地位になってからまで出稼ぎ根性ではケシカランといわれますから申し上げませんけれどね。私は新潟県人の代議士として26年間勉強してきたつもりです。新潟県だけではありません、いま過疎地域と言われておるような東北や北海道や日本海側地方、四国、南九州。残された宝庫です。こういうものに政治はメスを入れる。本当にこれから100年、300年、500年、1000年、日本を開いていかねばならんと思うています」
メスを入れる、という言葉の使い方には首を傾げたくなるが、それはともかく、いかにも泥臭い論理はどこか山崎ハコの歌の世界に通底するものだろう。やみくもな未来への希望と過去への憧憬がきわどく交錯した、1970年代ならではの心の叫びといったらいいのか。半世紀前の小さなリサイタルの実況録音は、わたしも確かに呼吸していたはずの、そんな時代の空気をありありとよみがえらせてくれるのだ。