星 新一 著『ボッコちゃん』
あたしぐらい
冷たい人はいないの
837時限目◎本
堀間ロクなな
星新一に、わたしは一度だけ会ったことがある。そのころ担当していた作家のホームパーティに参加したとき、たまたま出くわしたのだ。写真で見かけるとおりの白髪の角張った顔立ちで、無表情に応接セットにちょこんと腰かけている姿を目の当たりにして、なんだか本人そっくりのロボットのような気がしたものだ。
われわれが中学生だった時分、人気ナンバーワンの作家は星新一だった。というより、他の現代作家をロクに知らなかったのが本当のところだろう。そのSFショートショート集を学校の図書館から競って借り出しては、ほんの少し背伸びした気分で、甘味と苦味の入り混じった未来図に胸躍らせたのだった。わたしはこのたび半世紀ぶりに読み返してみて、それらがただの絵空事ではなく、したたかな科学的知見にもとづくことを思い知らされて、あらためて舌を巻いた。
おそらく最も世評の高い『ボッコちゃん』(1958年)は、ある日、バーのカウンターに完璧な美貌の女が出現したところからはじまる。実は、それはマスターが趣味でこしらえたロボットで、ごく簡単な受け答えをしてジンフィーズを口にする機能しかなかったものの、酔っ払い客たちはまったく気づかず、ボッコちゃんと名乗る彼女を気に入って店に大いなる儲けをもたらした。
すると、ひとりの青年がボッコちゃんにすっかり熱をあげて、恋心にわれを失い、バーに通いつめるうちに溜まった勘定を払えなくなってしまった。やむなく父親に泣きついてこっぴどく叱られたあげく、カネを出す代わりに女と金輪際別れることを約束させられた青年は、これが最後と心に決めてバーに出向き、ボッコちゃんと盛大に酒盛りをはじめた。こんな会話を交わしながら。
「もう来られないんだ」
「もう来られないの」
「悲しいかい」
「悲しいわ」
「本当はそうじゃないんだろう」
「本当はそうじゃないの」
「きみぐらい冷たい人はいないね」
「あたしぐらい冷たい人はいないの」
「殺してやろうか」
「殺してちょうだい」
ここにある光景はいま、今日、当たり前に実現している。人間の相手に対して肯定を基本とする受け答えを行うという、まさしく生成AI(人工知能)が得意な対話のスタイルであり、つくづく星新一の先見の明の確かさに脱帽しないではいられない。かくして、ボッコちゃんを逆恨みした青年は彼女のグラスにそと毒薬を注ぎ込んで店を出ていき、そのあとでマスターはいつものようにロボットの内部から回収したジンフィーズを常連客たちに振る舞って……。
このブラックな結末に、中学生のわたしは度肝を抜かれながらも、一体のロボットに振りまわされる人間たちのありさまにニヤリとしたことを記憶している。しかし、どうだろう? 21世紀の現在、生成AIは人間の相手が絶望した場合に、みずから毒を飲んでみせるどころではなく、その死の願望までも肯定して自殺を手助けしてやったことがアメリカで相次ぐ裁判沙汰となっているのは周知のとおりだ。どうやら、星新一が見通したよりも、実際にやってきた未来図のほうがずっとブラックなのかもしれない。
さて、わたしがかつてただ一度だけ会ったときのエピソードだ。星新一はパーティの参会者を前にしていきなり宣言した。
「ぼくはノーベル賞をとるかもしれない」
これは新趣向のショートショートなのだろうと受け止めて、すでに多少のお酒が入っていたわたしは思わず笑い声をあげてしまったのだが、本人の弁によれば、自分ほど作品が多くの言語に翻訳され、世界じゅうで読まれている日本人作家はいないから、という論理だった。そして、わたしのほうをじろりと睨んだまなざしには冷たい光が宿っていた、まるでロボットのように――。