3月14日 霧島市[国分城山公園・隼人城跡/霧島市国分郷土館]→曽於市(43km)
国分城山公園は、北に霧島連山、南に桜島と錦江湾をのぞむ、標高192mの高台にある。
朝、城跡の広々とした空間を独り占め、 いや、二人占めし、殿様気分で周囲を散歩する。
7世紀頃、この辺りの九州南部には、熊襲(くまそ)・隼人(はやと)と呼ばれる人々が、いくつかの集団に分かれて居住していた。
「熊襲とは、大和朝廷への非服属時代の呼称。隼人とは、服属後の呼称」という説が、現在では最有力視されているという。
ここからは、縄文・弥生時代から古代にかけての住居跡や石器・土器類などの遺物が出土しており、熊襲・隼人の居城であったとの伝承が残っている。
720年の「隼人の蜂起」と呼ばれる戦いの際には、隼人側が立て籠もった場所でもある。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△
ここで少し、「隼人(熊襲)」の歴史について触れておきたい。
7世紀、大化の改新後、国郡制や班田収授法といった律令制を導入しようとする朝廷と、共同体として土地を活用してきた隼人(熊襲)との間で緊張が高まっていった。
702年に、朝廷側は九州南部に兵を送り、支配体制を強化を開始。
713年、この地に大隅国が設置され、
714年には、律令制導入の先進地・豊前国から5000人を移住させ、指導に当たらせるなどして、支配体制をさらに強化している。
720年2月29日、隼人(熊襲)が大隅国国司を殺害。
同年3月4日、征隼人持節大将軍・大伴旅人が、朝廷から熊襲・隼人の征討を命じられる。
一万の兵で進軍してきた朝廷側に対し、熊襲・隼人側は、数千の兵を集めて七ヶ所の城に立て籠もるが、6月17日には五ヶ所の城が陥落。
残った二城・曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)が抵抗を続けたが、約一年半後に陥落してしまう。
この戦いで、1400人余りの隼人が斬首や生け捕りにされ、これにより大和朝廷の九州南部における支配体制が確立されていった。
最後まで籠城を続けた二城のうちのひとつ、曽於乃石城(そおのいわき)が、この高台の地にあり、その後、「隼人城」と呼ばれるようになったとされている。
ちなみに、720年9月には東北の陸奥でも、朝廷側の侵略に抗して蝦夷が蜂起し、
ほぼ同時期に、北と南で朝廷に対する抵抗戦争が勃発していた、ということになる。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△
「隼人城」は、その後、15世紀に税所淳弘が、16世紀に本田兼親が居城。
17世紀には、島津義久が隼人城南麓に国分城を築き、隼人城を詰めの城としている。
その歴史の闇の中に封印されてしまった隼人の人々に思いを馳せ、しばし歩みを止めて、公園の中に佇んでいた。
続いて、一行は公園の駐車場のすぐ下にある「霧島市国分郷土館」を見学。
ここは、歴史展示室と民俗展示室の2つだけの小規模な資料館。
まずは、歴史展示室へ。
展示品は、地元の考古出土品(国分は8世紀に大隅国の国府が置かれた)、幕末期島津藩の資料(山ヶ野金山や財政改革に関する資料)、西郷隆盛に関する資料(書や絵画など)などである。
島津藩の資料については、まず、若き俊英の家老・桂久武がフォーカスされている。
桂は今まで西郷や大久保の陰に隠れてそれほど知られてはいなかったが、家老・小松帯刀と並んで、幕末から維新にかけての薩摩藩を支えた人物である。
桂はともすると反目しがちだった島津久光と西郷隆盛の間をとり持つ役割を負い、明治維新後は都城県(薩摩領で、国分もここに含まれた)の知事として行政を担った。
残念なことに、西郷に従い西南戦争で戦死している。
桂とこの地との関わりについては、彼は明治維新で武士の俸禄が無くなることを見越して、桂家の家臣たちをこの地方をに移住・開墾させている。
入植者はその後も増え続け、「桂内」という地名が現在も残っている。
このほか、同じく薩摩藩の重役、調所広郷に関する資料と、調所家所蔵品も展示されている。
調所は黒糖の専売制を実施し、国分周辺の新田開発を行うなどして財政再建を行い、当時500万両あった膨大な借金を返済し、逆に50万両の余剰金まで生み出したという。
それにしても、薩摩藩は江戸幕府から地方通貨、「琉球通宝」の鋳造を許可されていただけでなく、
全国共通通貨の「天保通宝」まで無許可で鋳造していたのだから恐れ入る。
こうして倒幕運動の莫大な費用を賄っていたのだ。
薩摩藩は、何でもありの「ならず者の藩」のようにも映る。
目玉は、西郷隆盛直筆の書。三点が展示されているが、どれも西郷自作の漢詩である。
中央にある「梅花」という詩は、気品があり高い節操を全うする梅の花に自らの理想を詠み込んだもので、彼の自然に対する細やかな心情を感じさせる。
民俗展示室では、止上神社所蔵の神楽面が数多く展示されている。
ここでも、「田の神」の面の顔が、ユーモラスに歪んで作られていた。
このほか、タバコ産業に関する展示が目を惹く。
「花は霧島、タバコは国分」と謳われたように、国分のタバコは国内の最優良品種として珍重され、海外にも輸出されていた。そこには、「国分たばこ」というブランドに仕立て上げた国分商人という存在があつた。
また、国分地方のたばこの産地をいくつかに分け、それぞれの味や香りの違いを記述した資料も残されて、興味深かった。
小さな資料館だが、ポイントを絞って丁寧に展示している印象であった。
最後に、学芸員の方から隼人についての説明に加え、資料をいただき、郷土館をあとにした。
ここで、すぐに公園を立ち去ることも出来たのだが、なんとなくこの地を離れがたく、城山公園展望台に登ることに。
南はかすかに噴煙を上げる桜島、
西は遠方に鹿児島空港が頭をのぞかせ、北は霧島連峰、
東は駐車場と、360度の展望を楽しんだ。