1980年代の韓国の記憶
写真家・桑原史成の1960年代の韓国の写真を見ながら,思い出すことがあった。1980年代の全斗煥の軍事政権下の記憶である。
私は,1980年代前半,大阪市中之島公会堂で大阪外国語大学朝鮮語学科の学生が講師をする市民向けの朝鮮語講座に通い,朝鮮語を学んでいた。まもなく韓国に行きたいと思うようになり,知り合いの毎日新聞記者OBにU先生を紹介してもらい,1985年,初めて韓国を旅行した。以後,数回,韓国を訪れた。
空港に迎えに来てくれた韓国の友人に連れられ,地方の食堂に入ったとき,彼は、私が手にしている湯呑み茶碗を指さした。湯呑みには短い言葉が書かれている。彼は,小声で,スパイは当局に知らせよと書いてあると教えてくれた。
スパイ探索の湯呑みが市民に配布され,食事をしにきた客にも読ませる。市民監視の目が全国津々浦々に光っていた。
釜山でU先生夫妻とお会いした。U先生は,釜山大学を退官されたばかりだった。先生の妻は日本人のTさんだ。
U先生は,戦中,同志社大学で学び,毎日新聞記者として日本で働いていた。敗戦が色濃くなり,毎日新聞は,日本はまもなく降伏するという情報をキャッチしていた。先生は,降伏直前,急いでTさんを伴って釜山に帰られた。
私が先生とお会いしたのは,その40年後のことである。先生は,政治学の研究者となって,釜山大学で学部長(正しい名称は忘れた)もされた。お会いしたときは退官直後だった。
先生にはご著書も論文もない。長い軍事政権で言論統制が厳しく,自身の考えや思想を発表することはできなかったのである。先生の自宅の書斎兼寝室には本が書棚にびっしり並んでいたが,書き物をしている風の部屋ではなかった。思索の部屋だった。日本の月刊誌を購読されていたが,保守系の雑誌だった。
先生は,戦時,日本の新聞記者で,書けることは限定されていたとはいえ,言葉で事実を語り,言葉で思索する仕事をしていた人である。解放された母国に帰ったが,なお思想を言葉で練り上げることができず,限られた資料文献でしか思索を積むことしかできない研究生活を送らなければならなかったことを思った。
先生は,私をソウルに住む子ども家族に合わせ,ソウルを案内させるとして,二人で釜山からソウルに向かう高速バスに乗った。先生は,バスの中で,当局の監視役が常に自分を監視している,このバスにも乗っている,と淡々と言われた。私はびっくりして,咄嗟に後ろを振り返った。バスの乗客はわずかで,先生を見張っている人間はいないように見えた。監視役はプロで,悟られるようなドジはしない。私は,一番後ろに座って下を向いているあの男だろうと思った。
市民を監視し,市民同士で相互監視させ,言論統制する社会。市場は賑やかだし,公衆浴場も人で溢れている。遊園地では家族づれが楽しんでいる。一見の旅行者には何も見えない。
しかし,私は,U先生と釜山からソウルまでの小旅行で話を聞き,妻のTさんと一緒に散歩したり買い物をしたりしながら,軍事政権下の韓国社会で日本人妻として生きることの苦労を聞いた。
Tさんは,市場で訛りのある韓国語に日本人かと問われて「アニィ」と否定し,訛りは地方の出だからだと嘘をついたという。韓国社会では,日本人であることは隠さなければならないことだった。釜山には日本人妻のソサエティがあったが,ソサエティにかかわることは避けた。U先生が浮気をしてしばらく家に帰ってこなかった,という辛かった話もされた。
Tさんが,姉が住む滋賀に里帰りされるのに同行したとき。姉は,妹の初めての里帰りだというのに,そして私がついて来ているのに,妹にひどく冷たい態度をとった。長い年月を経ても,朝鮮人男性と結婚して韓国へ渡ったことが許せなかったのだ。
解放後の韓国だったが,U先生とTさんは,それぞれに生きづらい社会を耐えてこられた。私は,韓国という国を近いのに遠い思いで見つめている。