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9/20 「待望」 三浦 遙牧師  聖句:ヘブ9:23-28

2026.09.20 01:20

 本日のヘブライ人への手紙は、誰が書いたのかも、宛先の「ヘブライ人」が誰を指すのかも分かっていない手紙です。天にあるものの写し、大祭司、いけにえ。難しい言葉が並びますが、突き詰めればそう込み入った話ではありません。聖書が語る神と人との歩みは、繰り返しの歴史でした。はじまりは楽園を追われたこと。木の実を食べたからというよりも、人が神から離れてしまったということです。その後も神のほうから何度も歩み寄ってくださいました。アブラハムが招かれ、モーセの時代に民は海を渡り、ダビデが立てられ、預言者が遣わされていく。けれどもそのたびに人はまた離れ、いちばん厳しいところで助けられ、そしてまた裏切る。読んでいて切なくなるほどです。

 その歩みの中に神殿がありました。ただそれは、決まった場所でなければ神様に会えないということでもあります。入れる人も限られ、あのモーセでさえ幕屋に入れなかったと記されています。大祭司が年に一度、奥へ入る。動物の血をささげ、暮らし向きによっては山鳩でもよかった。それぞれの精一杯を持っていったのです。けれども手紙は厳しく言います。雄牛や雄山羊の血は罪を取り除くことができない。繰り返さねばならなかったのは、それでは消えなかったからでした。

 わたしたちにも覚えがあるかもしれません。どれほど深く反省したかよりも、同じ過ちを繰り返さないかどうかのほうが、よほど大切なのですから。驚くのは、神が動物ではなく御自分の子をささげられたことです。ただ一度で十分であった。そう言えるほどに、あの十字架は大きなものでした。イエスが息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕は裂けました。年に一度でもなければ、選ばれた人だけでもない。いつでもどこでも礼拝できるようになったのです。そして二度目に携えて来られるのは、裁きではなく救いです。もうすでに救いは完成しているのだから、安心して信じ、待っていてよい。わたしたちが待ち望むのは、平和かもしれません。愛かもしれません。誰かの笑顔かもしれません。その救いは、もう目の前まで来ていると聖書は示すのです。