『建礼門院右京大夫集』
あるがあるにも あらぬこの世を――
運命の前に滅んでいく者の懊悩の叫び
55時限目◎本
堀間ロクなな
平安末期のインテリジェントな貴族の娘に生まれ、時代の覇者たる平清盛の次女で高倉天皇の中宮となった徳子(建礼門院)に仕えて建礼門院右京大夫と名乗った女性の姿かたちを知る術はないけれど、彼女がうたった三十一文字にはいまだに生々しい息遣いを感じ取ることができる。
その『建礼門院右京大夫集』では、宮廷での華やかな光景や虚実ないまぜの恋愛模様に心を躍らせたのも束の間、やがて平家一門が都を追われるのを見送り、壇ノ浦で敗亡を遂げてからは追善供養にいそしみ、後年、後鳥羽院のもとに再出仕して、藤原定家の斡旋で『新勅撰集』に自作が採録されるまでが、約360首の和歌を織り込んで綴られていく。その半生記中、最も精彩を放っているのは平資盛(すけもり)とのドラマだろう。
資盛は清盛の嫡子・重盛の次男で、中宮の甥にあたるサラブレッドだ。すでに正室を持つ身ながら、あるとき、忘れ草に添えて「浦みても かひしなければ 住の江に おふてふ草を たづねてぞみる」と付け文を寄越したのに対し、作者がつい「住の江の 草をば人の 心にて われぞかひなき 身をうらみぬる」と本音で応じてしまったのをきっかけに、ひそやかな交流が生じて7年ほどにおよぶ。
諸行無常の時勢により平家一門が都落ちした年、資盛は23歳、作者は27歳だった。そのとき、男は「こんな世間の騒動となったからには、自分も命を失うことは疑いない。そうなったら少しは不憫に思ってくれるだろうか。たとえ何とも思わなくても、こうして親しく長い年月を重ねてきた情けから、必ず供養をしてくれよ」と告げ、女は「またためし たぐひも知らぬ 憂きことを 見てもさてある 身ぞうとましき」と述懐する。
翌年、遠方の戦場から男の最後の便りが届き、そこに「あるほどが あるにもあらぬ うらになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」(『玉葉集』)の一首を目の当たりにして、作者はこう絶唱するのだ。
おなじ世と なほ思ふこそ かなしけれ あるがあるにも あらぬこの世を
およそ歌心とは縁遠いわたしも慄然とする。ふたりのやりとりは、たとえ宮廷社会の不道徳な色恋沙汰だったにせよ、そこには運命の前に滅んでいく者の懊悩の叫びが確かに響いているのだ。あるいは、はるかな時間と地理を隔てて、ハムレットの “ To be, or not to be : that is the question ” のセリフにもこだましているように思うのだが、どうだろう。なお、『平家物語』は壇ノ浦の戦い(1185年)での資盛の最期を、つぎのように伝えるのみだ。
小松の新三位中将資盛、同少将有盛、いとこの左馬頭行盛、手に手をとりくんで一所にしづみ給ひけり。