9月20日 主日礼拝
9月20日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 28章17~31節
使徒言行録を読み終わる。
パウロが見つけたものを「理」と表現してきた。
「理」とは何か。
辞典、意味を説明、言葉を納得することが「理」ではない。
「理」とは行動、生き方でしか表せない。
パウロのクレタ島での行動。
蛇に絡みつかれたパウロの姿を見て、人々は「こいつは人殺しだ」と判断する。
ところがパウロの様子に変化がないと今度は「神様だ」と言い出す。
評価が正反対まで揺れ動くが、当のパウロは、それらの言葉に何も反応していない。
反応せずに自分のできることをただひたすらに行っていく。
歴戦のつわもの、大男のゴリアテを前にしてイスラエルの人々は縮みあがった。
少年のダビデは、この男と戦えると申しでる。
王のサウルは半ばあきらめ気味にこの少年ダビデを戦場へと送り出す。
その際、王の武具をダビデに付けさせる。
ところがダビデは、こんなものを付けていては重くて戦えないと全部脱ぎ捨て、
普段、羊の番をしている時に持ち歩いている革の石投げ紐だけを携えてゴリアテの前に進んで行く。
少年を送り込んできたイスラエルの姿勢に侮辱をされたと思い込んだゴリアテはダビデに襲いかかが、ダビデが石投げ紐から放った石粒一つで倒されてしまう。
ダビデは日常と変わったことは何もしていない。
主イエスは「あなたは地の塩、世の光」という。
条件、努力を求めていない。
何もしなくとも「塩」であり「光」だと言う。
他者の言葉に振り回されないパウロ。
自分に何も貼り付けなかったダビデ。
本当の自分に気が付けと語る主イエス。
自分でないものに支配されない、依存もしない、自分自身を生きる。
「理」とは何か。
本当の自分を生きること。
本当の自分を生きるものはどうなるのか。
使徒言行録の最後、パウロはユダヤ人たちに告げる。
あなたたちは頑なだ。
自分に貼り付いたものに気が付こうともせず、まして、それを脱ぎ捨てようともしない。
この神の救いの言葉はこれから異邦人に語られる。
私は異邦人の方へと行く。
「理」とは行動であり、生き方。
異邦人へ行く。
ここだけ、ここが終点。
その制限はない。
どこにでも行ける。
どこまででも行ける。
自由。
「理」を見出したもの。
「自由」を生きる。