矛盾の先へ
近頃、当事者性ということに改めて関心を持ち始めた。
心理士である私は他者の葛藤する姿、あるいは葛藤できない姿というのを対象として見ようとしてきた。
しかし原点に戻れば、私は私の苦しみを理解しようとしていたのだった。
世界は父と母のニ人しかいないわけでもなければ、理系と文系のニ類型しかないわけでもなければ、安全と挑戦のニ択しかないわけでもない。
しかし私はずっと世界がニ極化したもののように感じてきて、そのどちらにも染まりきれない自分に、居場所のなさを感じてきたのだった。
悩みを経ながら、人は変容していく。
人は苦難を乗り越え自己成長していく力を持っている。
過去を振り返れば私はそれを信じることができるけれど、
いつも覚えておけるわけではなくて、
忙しない日々の中で、気づいたらまた、割り切れない現象はすぐに答えにはめ込もうとしてしまう。
でもすぐに、もう一方の別解に惑わされて、その決断力のなさに落胆する。
自分はどちらの道を生きたいのだろうか。
自分は本当は何を知りたいのだろうか。
本当は二者択一ではないこと、
世界はグラデーションであることを悟っては、また忘れる。
自分は自分の道を生きてきたはずで、
自分は無知であることを知ってきたはずだった。
問いが転回を止めることはない。
知ろうとすればするほど、
世界はやはりニ色なのではないかと思えてくる。
思い込みなのだろうが、この往復に終わりはない。
悩ましい。
この悩ましさを抱える力が欲しい。
父でも母でもなく私の人生は私のものであるということ、
理系でもあり文系でもあると言ってもよいこと、
安定を大切にしつつも、挑戦する自由を求め続けたい自分を認めること。
このような非常に困難な心の課題たちを携えたまま、
相手には言葉での言語化を迫り、
自分は書くことに逃げている。
私は自分がどんな臨床家になっていけばよいのか未だ明確にできずにいる。
中堅になることへの期待と同時に恐怖を持っている。
問題と向き合うことは怖い。
変化することは怖いことなのだ。
私はそのような意味で、
治りたいけど治りたくないというアンビバレントな心理を持ったクライエントたちと切り離された治療者ではなく、当事者性を持った一人の人間なのだと、最近つくづく思う。
必ずしも言葉で決着をつける必要はないかもしれない。
思えば私をここまで生き伸ばしてきたのはただの非言語的感動との断続的な出会いだった。
クライエントとの出会いを現実的に見ていき、双方に何が起きているのか、その意味を考え続けられるような心理臨床家でありたいと思う。
技法ありきでセラピーが始まるのではないということを忘れずにいたい。
クライエントの葛藤とセラピストの葛藤の在り方の両方を十分に想像できるようになれたなら、
きっともっとダイナミックに物事を見ていけるようになれるのではないか。
そんな期待を込めて、
研究テーマを広げては絞って、
着地点を模索している最中である。