影響力と境界線
「影響力がある」と聞いて、どんなことが浮かぶだろうか。
パワフルな感じ。 人を惹きつけるイメージ。
たぶん、プラスの印象を持つ人が多いんじゃないかと思う。
それに反して私は、「人に影響を与える」ということを、どこかでずっと恐れていた。
ひとつは、自我の強い母のもとで育ったことが関係しているのだと思う。
母は、自分の思い通りに人が動かないと怒り、周りが自分の意向に従うまで不機嫌を貫くような人だった。
影響力を持つ=人を自分の意に沿うように従わせる。
私の中には、影響力に対して、そんな不快感をともなうイメージがあったのだと思う。
もうひとつは、影響力が人に与える作用を理解しないまま、それを外に放ったときに起こることへの怖さだった。
人から強い影響を受ければ、理想化したり、期待したり、そこから失望や反発が起きることもある。
投影や転移という言葉で説明されるような現象が起こることもある。
そして発する側が、自分の中にあるシャドウを十分に見ないまま影響力を使えば、相手から返ってきた反応に健全な線を引けなくなることもある。
たとえば、自分では処理しきれない出来事が起きて「そう受け取る相手が悪い」と相手の問題に返したくなるとき。
それが健全な境界線か、あるいは他責な考え方に自分がフォールバックしているか、そのどちらか自分でもわからなくなることは、大いにあり得る。
人は、自分の中で処理できない出来事に直面すると、簡単に未熟な部分が顔を出す。
どこかでそんな人の習性を、感じていたからかもしれない。
そんなこんなで私は「影響力」を恐れ、 それとの距離を置くことで心の安定を図ろうとしてきた。
でも最近、人とのつながりをあらためて感じるなかで、影響力の見え方が変わってきた。
影響力、と一言でいっても、 そこには質の違いがあるのだ。
ひとつは、 「私を見て。私を基準にして」 と発するもの。
もうひとつは、 「私を通して、自分を見て」 と発するもの。
どちらも人に影響を与える。
でも、影響を受けた人の重心がどこへ向かうかは、大きく違う。
「私を基準にして」と発する影響力は、 相手の重心を発する側へ引き寄せる。
私が正しい。 あなたもこっちへ。
あなたはいまここにいる。 あなたにはこれが必要。
発する側が相手の現在地や答えまで定義していくと、 受け手は少しずつ、自分の外側に参照点を置きやすくなる。
そうして、私は合っているだろうか。 正しく進めているだろうか。この人ならどう考えるだろうか、と受け手の参照点は、自分の内側から少しずつ外へ移っていく。
こうなった関係では、理想化や依存、失望や反発が起こる余地も大きくなる。
関係が近くなりすぎている、ともいえるかもしれない。
互いの安定のために互いを必要とする関係では、正しい場所に気持ちよく線を引くことができない。
一方で、 「私を通して、自分を見て」 という影響力は、 相手の重心を相手自身へ戻していく。
そこに置かれるのは、
「私はこう見えている。 私はこれを大切にしている。 私はこう生きる。 でも、あなたがどう受け取るかはあなたのもの。」 という余白のあるものだ。
発信者の言葉が「答え」ではなく「鏡」としての役割を果たすとき、 受け手の意識は、自分の内側へ戻っていく。
私はどう感じるんだろう。
私は何を大切にしたいんだろう。
私はどう生きたいんだろう。
自分を生きたい私たちの多くに必要な問いは、もしかしたらこちらのほうではないだろうか。
自分の世界を強く持つことと、 相手の世界を規定することは、別なんだと思う。
私が怖がっていたのは、 影響力そのものではなかった。
境界線を越えて相手の領域に入り込み、 相手に起きた変化まで自分の成果として回収しようとする影響力だったのだと思う。
自分の世界は、濃くていい。
私はこう思う。
私はこう見えている。
私はこう生きる。
そこは思い切り言っていい。
でも、相手の領域には踏み込まない。
相手が何を感じ、 何を選び、 どこへ向かうのかは、 相手の自由。
それを余白として残しておく。
この境界線があると、 相手に起きた変化を 「私の成果」として所有する必要もなくなるんじゃないかな、と思っている。
影響力は「所有するもの」から、世界へ放っていくものでいい。
自分の世界は濃く持つ。
相手の世界は、相手に返す。
その境界線がわかってきた今、 私はようやく、影響力を恐れずに持てる気がしている。