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「宇田川源流」【日本万歳!】 <訃報>「北の国から」など原作者倉本聰さん死去

2026.10.04 22:00

「宇田川源流」【日本万歳!】 <訃報>「北の国から」など原作者倉本聰さん死去


  さて、「万歳!」としながら訃報をお届けするのは、かなりの不謹慎であると思うが、「万歳!」はコーナー名(連載名)であるので、外せないのでお許し願いたい。

 以前にも和泉雅子さん大山のぶ代さんの逝去の時には、その訃報をこのコーナーでお届けしたが、その人の功績が日本を大きく発展させたとか、日本の文化に寄与したというようなことの場合には、やはり訃報であっても扱ってゆきたいと思うのである。今までこのコーナーでは大山のぶ代さん、渡辺恒雄さん、そして長嶋茂雄さんと多くの皆さんが知っている人ではなかったかと思う。また元セブン&アイホールディングスの名誉顧問であった鈴木敏文氏に関しては、やはり企業の元社長ではあるもののやはりコンビニエンスストアという日本の文化を作った人物であるということでここで取り上げました。一応、鈴木氏に関しては、中央大学の先輩ということもあったので、ここで取り上げました。

今回は、私の大学ではなく、中学高校の先輩である倉本聰さんの不法です。

脚本家で劇作家の倉本聰(くらもと・そう、本名:山谷馨)さんは、1935年に東京で生まれ、東京大学文学部美学科を卒業した後の1959年にニッポン放送へ入社しました。同局でラジオドラマの制作や演出に携わるかたわら執筆を始め、1963年に独立して本格的にフリーの脚本家としての道を歩み始めました。

 その後、東京の下町の料亭を舞台にした『前略おふくろ様』などのヒット作を送り出した後、1977年に活動の拠点を北海道富良野市へと移します。この移住が大きな転機となり、1981年から放送されたドラマ『北の国から』は大自然の中で生きる家族の姿を丁寧に描き、登場人物の成長とともに20年以上にわたって続編が作られる国民的な大ヒット作となりました。さらに『優しい時間』や『風のガーデン』といった富良野を舞台にした名作を次々と世に送り出しました。

 また、後進の育成にも並々ならぬ情熱を注ぎ、1984年には役者やシナリオライターを養成する私塾「富良野塾」を立ち上げて多くの人材を育て上げたほか、近年は閉鎖されたゴルフ場を元の森へと返す自然返還事業や環境教育にも精力的に取り組みました。2000年に紫綬褒章、2010年には旭日小綬章を受章するなど日本のテレビ文化に多大な功績を残し、2026年9月18日、多くのファンや関係者に惜しまれながら富良野市の自宅にて91歳で息を引き取りました。

<参考記事>

【速報】ドラマ"北の国から"の生みの親、倉本聰さんが死去…ふらの観光ブームを巻き起こし、自らも移住し「富良野塾」を主宰<北海道富良野市>

9/28(月) 10:01配信 北海道ニュースUHB

https://news.yahoo.co.jp/articles/303ee1667dde609215ed53038f6b6f179f9370ed

<以上参考記事>

 倉本聰さんは私の麻布学園時代の大先輩にあたります。確か同級生が西武グループの堤義明さんであったと思います。その麻布時代のエピソードで有名なものを見てみましょう。

倉本さんが入学した当時の麻布は、校舎の屋上から焼け野原が見える時代でしたが、自由奔放な校風の中で演劇活動が非常に盛んでした。 当時、演劇部には上級生にフランキー堺さんや小沢昭一さんといった、のちに昭和の芸能界を牽引するそうそうたる先輩たちが在籍しており、倉本さんはその手伝いをしながら強い刺激を受けたといいます。 また作文が大好きだった倉本さんは言論部にも所属し、自身の学童疎開の体験を小説に綴るなど、麻布の自由な空気の中で表現することの喜びを培っていきました。

 そしてもう一つ、ファンの間でもよく知られているのが、高校時代に手がけた「人生最初のオーディオドラマ」のエピソードです。 同級生に銀座山野楽器の息子さんがいた縁から、当時としては一般人が触ることすら難しかった非常に高価なテープレコーダーを自由に借りる機会に恵まれました。 倉本さんはこれに大興奮し、自らシナリオを書き上げて友人たちと一緒に音声ドラマを1本完成させました。 倉本さん自身がのちに「これが僕の人生で最初に作ったドラマだった」と懐かしく振り返るほど、麻布時代の豊かな人脈と自由な遊び心が、稀代の脚本家を生み出す最初の一歩となったのです。 なお、この麻布時代にはのちの西武グループを率いる堤義明さんとも同級生として親交があり、その縁がめぐりめぐって富良野プリンスホテルの開設や、名作『北の国から』の誕生へと繋がっていくという、麻布ならではの壮大な後日談も残されています。

さて、私もそんな倉本聰先生に直接会ったことがあります。初めのうちは「とっつきにくい」という感じです。ある意味で、麻布の人によくあるタイプなのですが、非常に社会に対して反骨心があるだけではなく、「自分は周辺の一般人に理解されない」と考える部分があり、その為に、自分が理解されないということに予防して人を寄せ付けなくするということをしてしまいます。しかし、その「高い壁」を声て「仲間」になってしまうと、今度は非常に優しく、「守ってあげる」ということになるのです。

私もそんな体験をしました。富良野塾には行ったわけではないのですが「中学高校の後輩」として、学校の先生(当然に倉本聰さんを知っている先生も少なくない)が紹介してくれて遊びに行ったのです。私の場合は、高校の後輩という事であろうから、少しは壁が低かったような気がしますが、しかし、ホテルなどはすべてキャンセルして倉本氏の家(なのか仕事場なのかわかりませんが)そこに泊めていただいたのです。そして、脚本や創作物に関する話を様々にお話ししてくれたのです。その中で強烈に覚えているのは「普通と同じに物事を見ていれば、普通と同じ結論になるから、物語にはならない。普通ではないから普通以外の『モノ』になるのだ」という事でしょうか。そして「しっかりと計画し、その内容を構成し、そしてその中に普通ではない観点を入れる」という内容でした。そのうえで「物語は『人間の本質をしっかりと書く』ことが基本。人間ならばどうするのか、それをしっかりと書く」ということと教えてもらったのです。そのうえで「お前の言っている高校は、少し異常な人間のサンプル宝庫だから、よく見て置け」という、優しいのかどうなのかよくわからない話を聞いたものです。その話は今でも参考にしております。

倉本聰さんは、劇作家として、「人間」に注目した作品で人々を魅了し、そして文化を作った人物ではないかと思います。

ご冥福をお祈りいたします。